井上 正岑(いのうえ まさみね)は、江戸時代前期から中期にかけての大名、老中。美濃国八幡藩の第2代藩主、丹波国亀山藩主、常陸国下館藩主、常陸笠間藩主。官位は従四位下・大和守、侍従、河内守。浜松藩井上家4代。
生涯
美濃八幡藩初代藩主・井上正任の次男として誕生した。元禄2年(1689年)、兄・正幸の廃嫡により嫡子となる。元禄5年(1692年)に家督を相続した。このとき弟の正長に3千石を分与した。
元禄8年12月(1696年)、奏者番、翌元禄9年(1696年)10月には寺社奉行も兼ねた。元禄10年(1697年)6月10日、丹波亀山に転封。元禄12年(1699年)10月に若年寄。元禄15年(1702年)9月、3千石加増の上で常陸下館へ転封となったが、城が手狭であったため即日常陸笠間に移った。宝永2年(1705年)に老中となり、同年12月には従四位に昇任、翌宝永3年12月に侍従となった。正徳5年(1715年)東照宮百回忌の法要総奉行を務めた。享保3年(1718年)1万石加増。
享保7年(1722年)5月17日に70歳で死去した。先に迎えた養子の正富は廃嫡され、正之が跡を継いだ。
人物
幕府政治家として奏者番、寺社奉行、若年寄、老中を歴任したが、新井白石の『折りたく柴の記』によると底意地の悪い性格の人物と指摘されている。また、「死んでも惜しくないもの 鼠捕らぬ猫と井上河内守」という出所不明の落書が江戸中に張られたこともある。
妻の清姫が紀州藩2代藩主の徳川光貞の姪にあたるため、光貞の四男であった吉宗が8代将軍に就任した理由の一つに、幕閣の重鎮であった正岑の後押しがあったためといわれている。7代将軍徳川家継が病床の際、他の老中たちが尾張藩主徳川継友の将軍擁立に動いたのに対し、正岑は妻の縁戚(従兄弟)にあたる吉宗擁立を主張したとされる。
年譜
系譜
父母
正室
養子、養女
脚注
井上家 丹波亀山藩藩主 (1697年 - 1702年) |
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前田家 | |
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岡部家 | |
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大給松平家 | |
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菅沼家 | |
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藤井松平家 | |
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久世家 | |
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井上家 | |
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青山家 | |
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形原松平家 | |
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松井松平家 | |
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小笠原家 |
- 小笠原吉次1608-1609
- 私曲連座により、改易
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戸田松平家 | |
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永井家 | |
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浅野家 | |
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井上家 | |
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本庄家 | |
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井上家 | |
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牧野家 | |
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徳川家康時代 | |
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徳川秀忠時代 | |
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徳川家光時代 | |
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徳川家綱時代 | |
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徳川綱吉時代 | |
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徳川家宣・家継時代 | |
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徳川吉宗時代 | |
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徳川家重時代 | |
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徳川家治時代 | |
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徳川家斉時代 | |
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徳川家慶時代 | |
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徳川家定時代 | |
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徳川家茂時代 | |
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徳川慶喜時代 | |
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