仙台市地下鉄
仙台市地下鉄(せんだいしちかてつ)は、仙台市交通局高速電車部が運営する地下鉄である。泉中央駅と富沢駅を結ぶ南北線と、八木山動物公園駅と荒井駅を結ぶ東西線の2路線がある。ハウスカラーはローヤルブルーとしている[1]。 路線
車両
いずれも4両編成で運行されているが、各駅のホームは南北線では2両、東西線では1両の追加ができる長さ(有効長)を持つ[7]。 案内放送
運賃大人普通旅客運賃(小児半額・10円未満切り上げ)。ゾーン運賃・対キロ区間制併用。2019年(令和元年)10月1日現在[14][15]。
運賃、所要時間については、公式サイトも参照。 乗車券通常の乗車券(切符)のほか、以下の乗車券がある。
備考
歴史仙台市において地下鉄が検討され始めたのは1960年代からである[17]。日本各地の都市部では昭和30年代以降に人口の増大と市街地の拡大が進んだ。仙台も同様で、それに伴って交通渋滞が顕在化したのもこの頃だった[18]。当時の仙台市には路面電車の仙台市電があったが、道路交通事情の悪化で自動車が市電の軌道内に侵入することが頻発するようになった。これは元々禁止されていたことだったが、1966年(昭和41年)に認められるようになり、これによって市電の定時運行はより困難なものとなった[19]。路線バス[注 4]も含めて、後の仙台市交通計画委員会の報告書は、こうした状況を都市機能の麻痺と表現している[20]。仙台市において都市計画道路[注 5]が計画されたのもこの頃である[18]。 こうした事情を背景に、1963年(昭和38年)に設置された仙台市交通対策委員会は地下鉄を考えるようになり、1967年(昭和42年)に路面交通の代替として地下鉄を検討すべきであると報告した[17]。また当時の仙台市長島野武は、1969年(昭和44年)に設置された仙台市交通計画委員会に対して、将来を見据えた交通体系として「大量高速輸送機関」の整備を諮問した。仙台市交通計画委員会では地下鉄案が有力視されたほか、地下鉄への市電や国鉄貨物列車の乗り入れ、宮城県北部の古川市(現在の大崎市)までの鉄道路線建設、さらにはモノレール案も出された[21]。仙台市交通計画委員会は検討を重ね、1972年(昭和57年)に全7路線、総延長45.5キロメートルに及ぶ地下鉄網を1985年(昭和60年)を目標に整備すべきであるという報告を提出した[22]。この地下鉄網計画[23]では以下のような路線が想定された[24]。
「北仙台線」および「長町線」は現在の仙台市地下鉄南北線の八乙女 - 長町南に相当するが、台原駅付近から当時の国道4号(現在の宮城県道22号仙台泉線[注 7])を北上する想定であった。また、北仙台線の七北田(八乙女)に「七北田線」が接続して北方向に、瓦山(台原)に「鶴ヶ谷線」が接続して東方向に、鍋田(長町南)に「名取線」および「茂庭線」が接続して富沢から南および西方向に分かれる計画である。さらに、仙台駅では仙石線を西に延長するように「川内線」が接続し、北部の郊外ニュータウン同士を横方向に繋ぐ計画だった。これらの中でも、北仙台線と長町線が早期に建設されるべき路線であるとされた。他方、既存の仙石線が大量高速輸送機関の一つとして位置づけられ、二重投資を避けるために仙台駅から東方向への地下鉄は計画されず、仙石線を高度利用化する方針が示された[20]。 この報告は車両などにも言及している。15メートル級車両2両で1編成を構成し、地下区間においては第三軌条方式、地上区間においては架空電車線方式という二つの集電方式を切り替えて併用することが望ましいと考えられていた。また、国鉄線との直通運転も検討すべき課題であるとされ、そのために国鉄と同じ軌間1067ミリメートルの線路で地下鉄を建設すべきであるという方針が示された。国鉄線の中では具体的な直通先として仙石線が名指しされた。列車の運転方式としては自動列車運転装置が挙げられた。また、この報告ではバスに加えて市電も地下鉄に対する二次交通に位置づけられていた[20]。しかし、仙台市は1973年(昭和48年)に地下鉄を今後の市内における主要交通と位置づける一方で、市電の廃止を決定し、1976年(昭和51年)3月末にこれを廃止する[19]。 仙台市の地下鉄計画には宮城県もいくつか提言を行っていた。宮城県は1972年度(昭和47年度)に仙台都市圏を対象にした(第1回)総合都市交通体系調査を実施し、翌1973年度(昭和48年度)から1974年度(昭和49年度)にかけて都市圏レベルでの総合都市交通計画を策定した[27]。この計画における公共交通機関計画では大量高速輸送機関(マス・ラピッド・トランジット、MRT)についても言及し、1980年(昭和55年)には「南北線」、1990年(昭和65年[注 8])には「南北線+東西線」、さらに将来的には「南北線+東西線+環状線」のマス・ラピッド・トランジット網を整備すべきと提案した[27]。また、後の1982年度(昭和57年度)に宮城県は第2回の総合都市交通体系調査を実施し、翌1983年度(昭和58年度)から1984年度(昭和59年度)にかけて都市圏レベルでの新たな総合都市交通計画を策定した[27]。この計画における公共交通機関計画では、1995年(昭和70年[注 8])には「南北線+東西線+南西線+北西線」、2005年(昭和80年[注 8])には「南北線+東西線+南西線+北西線+南小泉方向+環状方向」のマス・ラピッド・トランジット網を整備すべきとを提案した[27]。 1972年(昭和47年)の仙台市交通計画委員会の報告を受けて、仙台市は「仙台市高速鉄道建設準備事務局」を立ち上げ、地下鉄の建設に本腰で取り組むことになった。しかし、地下鉄の建設には多額の費用が必要であり、また経路の選定や需要の算定といった課題もあり、宮城県や関係官庁との調整に多くの時間を必要とした。その中でも、一番の問題が仙台市の人口だった。当時、運輸省は地下鉄の建設の条件として、人口100万人以上の政令指定都市を基準に考えていた。当時の仙台市の人口はこれに遠く及ばなかった。それでも、仙台市は鉄道網が未整備であることや悪化した道路交通の根本的解決が難しいことを理由に、地下鉄の実現を国に働き掛けた[22]。
1975年(昭和50年)、運輸省仙台陸運局の仙台地方陸上交通審議会において、泉市(現在の仙台市泉区)七北田周辺から仙台駅付近を経て長町周辺に至る「地下方式の高速鉄道」の整備を急ぐべきであるという答申が行われた。これは、事実上、国レベルの認知を意味した[30]。この答申を受けて、仙台市は宮城県や泉市と調整を行い、富沢から七北田までの区間を先に開通させ、その後に北側へ路線を延ばすことを泉市に内約して了承を得た。1978年(昭和53年)に仙台市議会は地下鉄の建設を満場一致で可決し、この年に仙台市は地方鉄道事業の免許申請を行った。免許は1980年(昭和55年)5月30日に交付され、1981年(昭和56年)に狭軌で架空電車線方式の南北線の建設工事が始まった[31]。地上区間や山岳トンネル区間の多い区間の工事は日本鉄道建設公団(現在の鉄道建設・運輸施設整備支援機構)に委託された。これは一時的な地下鉄建設のために仙台市が人員補充を避けるための方策であったが、公団も上越新幹線で発展させたNATM工法を応用するなど、経済的な路線建築が実現した。 地下鉄の建設に全く問題がないわけではなかった。建設地の文化財の事前発掘作業や、地質に由来する技術的な問題から工事が遅れた。また、工事業者の談合疑惑が持ち上がった。この問題は、談合に関わったと見られた一部の業者が入札から外されたことでうやむやに終わったが、工事に遅れを発生させた[31]。当初の計画では、南北線は1985年(昭和60年)に開業予定だったが、この年には正式な駅名の決定と、一部の車両の落成および試運転が行われた[32]。 そして、1987年(昭和62年)7月15日、南北線富沢駅 - 八乙女駅間の全線13.6キロメートルが開通した。開通時には、1000系電車19編成が用意され、平日160往復、その他の日に142往復の列車が運転された。総工費は約2300億円だった[32]。八乙女駅ではバスとの乗り継ぎ施設が併設され、その他の駅でもバスとの乗り継ぎ運賃が設定された。開通時には黒松駅と八乙女駅が泉市内だったが、1988年(昭和63年)3月1日に泉市が仙台市に編入合併されたため全線が仙台市内となった。路線の北への延伸はこの年に認可された。翌年に工事が始まり[32]、1992年(平成4年)7月15日には97億円をかけて[33]八乙女駅から泉中央駅へ1駅延伸し、総延長が14.8キロメートルとなった[32]。過去の計画における「七北田線」ではかつて七北田宿のあった市名坂を経由する想定であったが、南北線はその西側に新たに造成された泉中央に向かってそのまま北に延伸した。同年度に、泉区泉ヶ丘まで延伸するかどうかの調査が行われたが、延伸しないことで決着した(詳細は「富谷市#鉄軌道構想」を参照)。 こうして開業した仙台市の地下鉄だったが、経営的には苦しい状況に置かれた。工費が当初の見込みより150億円超過していた。また、1日当たりの平均利用者数は23万人という予測が立てられていたが、実際の1日当たりの平均利用者数は約11万人だった。運賃が割高であり「日本で一番高い地下鉄」とも言われた[34]。バスとの乗り継ぎ割引は経営の悪化を懸念した運輸省の指導で低く抑えられ、見込みどおりの利用には至らなかった。こうしたことから、仙台市は収支計画の見直しを余儀なくされた。一方、南北線沿線の道路の交通量の減少という効果も見られた[34]。 全7路線、総延長45.5キロメートルという計画から出発した仙台市の地下鉄計画だったが、南北線開業以後は東西方向への交通機関の検討だけが続けられた。1987年(昭和62年)には西公園と茂庭台を結ぶモノレール南西線が内定し、公表された。これと共に、仙石線を西公園まで延ばして南西線と接続させる案が有力視された。また、南西線を愛子まで延伸させる構想も生まれたが、結局、これらの計画は1991年(平成3年)に断念された[35]。その後、仙台市は地下鉄東西線を計画し、建設を決めた。2015年(平成27年)12月6日に、東西線が八木山動物公園駅 - 荒井駅間13.9キロメートルで開業した。東西線はリニアモーターを採用、トンネル径の小さい「ミニ地下鉄」方式で建設された。東西線の仙台駅より西側の区間は、過去の計画の「川内線」および「茂庭線」を踏襲したモノレール南西線や仙石線との直通案などの構想を経て、費用対効果が高い区間に短縮された。 年表
駅別乗車人員
経営状況
開業から2007年度までの単年度純損益は赤字が続いていたが、2008年度から黒字に転換。2011年度は東日本大震災の影響によって特別損失を計上したが、24億7827万円の黒字を確保[50]。2015年度は、18億4472万円の黒字。累積損益は877億2353万円の赤字まで圧縮した[51]。 2015年12月に開業した東西線の影響が、通期ではじめて現れる2016年度は、同線の営業収益に比べて、減価償却費が膨張したことから、地下鉄全体で29億5232万円の赤字に転落。累積損益は、906億7586万円の赤字へと悪化[52]。2017年度は、23億4091万円の赤字となり、累積損益は、924億3252万円の赤字へと悪化[53]、2018年度も単年度の赤字幅は改善傾向だったが、累積欠損額は増加する傾向が続いた。 2019年度は、過年度損益の修正として、19億87百万円の特別損失を計上したことにより、単年度の収支としては前年の赤字幅の倍以上となる45億3685万円の赤字を記録した。一方、その他未処分利益剰余金変動額121億4千9百万円を計上したことで、累積欠損額は867億1795万円に抑えられた。 2020年度以降、新型コロナウイルスの影響を受け、利用者数が激減し、乗車料収入が低迷[54]。2023年度、東西線においては沿線人口の増加等に伴って利用者数を更新するも、南北線はコロナ禍前の水準に回復するには至らず、8期連続の単年度赤字を計上した[55]。 脚注注釈
出典
参考文献
関連項目外部リンク |