会津戦争(あいづせんそう、慶応4年/明治元年(1868年))は、戊辰戦争の局面の一つであり、会津藩の処遇をめぐって、薩摩藩・土佐藩を中心とする明治新政府軍と、会津藩およびこれを支援する奥羽越列藩同盟などの旧幕府軍との間で行われた戦いである。現在の福島県会津地方が主戦場となった。
同時期に進行していた長岡藩をめぐる戦いは北越戦争として別記する。
概要
文久2年(1862年)、会津藩主・松平容保は京都守護職に就任し、新撰組を配下にするなどして尊皇攘夷派志士の取り締まりを強力に推進し、禁門の変においても幕府方の中核として、尊皇攘夷派の排除を行った。
鳥羽・伏見の戦いで旧幕府軍が破れ、徳川慶喜と共に江戸に退去した松平容保は、明治新政府の追討令を受けた慶喜の恭順方針に従って、自らも恭順の姿勢を示すため会津へ帰国し謹慎するが、藩内では主戦論が支配的であり、それを察知していた新政府側でも、会津の恭順姿勢を信用してはいなかった。
慶応4年(1868年)3月11日、江戸城が無血開城され(江戸開城)、慶喜が水戸藩で謹慎すると、薩摩藩・長州藩を中心とした新政府の矛先は、佐幕派の重鎮として敵視されていた容保に向けられる。
追討を命じられていた仙台藩・米沢藩など、東北諸藩は会津に同情的で、会津赦免の嘆願を行う一方、奥羽越列藩同盟を結成して結束を強めた。奥羽14藩では会議を開いて、会津藩と庄内藩の赦免嘆願を目的として、新政府の奥羽鎮撫総督・九条道孝に嘆願書(閏4月12日)を提出したが、後述の会津の回答書を受けて東征大総督府下参謀・林通顕による「会津は実々死謝を以ての外に之れなく」という基本方針は既に決定しており[2]、朝廷へ直接建白を行う(太政官建白書)も認められることはなかった。
奥羽越藩同盟の結成時点(白石会議)では、赦免嘆願を目的としていたが、会津が明治新政府の通達(4月25日)に対して罪を認めず、謝罪を拒否する回答書(閏4月15日)を示した事[3]と、明治新政府の鎮撫使である世良修蔵が、仙台藩士によって殺害された事件から、戦争に傾くことになる。
経過
白河口の戦い
白河藩は当時国替えにより藩主不在となり、幕府直轄領であった。旧幕府軍は西郷頼母を総督として、慶応4年閏4月20日 (1868年6月10日)に白河城を占領。これに対し新政府軍は、薩摩藩参謀・伊地知正治の指揮のもと、閏4月25日(6月15日)に白河への攻撃を開始し、5月1日(6月20日)に白河城を落城させる。旧幕府軍は7月までの約3か月間、白河奪回を試みて戦闘を繰り返したが、奪回はならなかった。
二本松の戦い
慶応4年6月24日(1868年8月12日)に棚倉城が落城、7月16日(9月2日)兵の大半が白河口に出向いている隙をつき新政府軍は二本松城を攻撃。城は落城し二本松藩主・丹羽長国は米沢へ逃れた。二本松藩は少年兵部隊を動員しており、彼らは後世、二本松少年隊と呼ばれた。特に木村銃太郎率いる20名は攻城戦の最中にそのほとんどが戦死し、会津戦争の悲劇のひとつとして語り継がれた。
若松城下への侵攻
二本松領を占領した新政府軍では、次の攻撃目標に関して意見が分かれた。大村益次郎は仙台・米沢の攻撃を主張し、板垣退助と伊地知正治は、会津への攻撃を主張した。板垣・伊地知の意見が通り会津を攻撃することとなった。(8月15日、板垣退助は米沢藩に降伏勧告する使者として、土佐藩士澤本盛弥を派遣した。)
二本松から若松への進撃ルートは何通りか考えられたが、新政府軍は脇街道で手薄な母成峠を衝いた。8月21日(10月6日)、新政府軍は母成峠の戦いで旧幕府軍を破り、40キロメートル余りを急進して8月23日(10月8日)朝に若松城下に突入した。新政府軍の電撃的な侵攻の前に、各方面に守備隊を送っていた会津藩は虚を衝かれ、予備兵力であった白虎隊までも投入するがあえなく敗れた。このとき、西郷頼母邸では篭城戦の足手まといとなるのを苦にした母や妻子など一族21人が自刃し、城下町で発生した火災を見て若松城に戻り敵に捕まれば武士の恥と白虎隊士中二番隊の隊士の一部が飯盛山で自刃した [注釈 5]。
降伏
会津軍は若松城に篭城して抵抗し、佐川官兵衛、山口二郎(斎藤一)らも城外での遊撃戦を続け、新政府軍も若松城に砲撃を加えた。
しかし、9月に入ると頼みとしていた米沢藩をはじめとする同盟諸藩の降伏が相次いだ。孤立した会津藩は明治元年9月22日(11月6日)、新政府軍に降伏した。同盟諸藩で最後まで抵抗した庄内藩が降伏したのはその2日後である。
会津攻略戦では、在府の大村益次郎は周囲の敵対勢力を徐々に陥落させていく長期戦を指示したが、戦地の板垣退助、伊地知正治らは、これに反対し一気呵成に敵本陣を攻める短期決戦を提案。この時、会津、庄内両藩は蝦夷地をプロイセンに売却して資金を得ようしていた。板垣らが会津を攻め落した為に、ビスマルクから返書が阻止されて蝦夷地売却の話が反故となったが、長期戦となっていれば、日本の国境線は大いに変わっていたと言われる[4]。そのため特に会津攻略戦での采配は「皇軍千載の範に為すべき」と賞せられた。
処遇
会津が降参するにあたり、会津藩士らは主君・松平容保が「素衣面縛」即ち罪人のように縄で縛られた状態で引きずり出され辱められるのではないかと危ぶんだが、板垣は藩主としての体面を保たせ「輿」に乗った状態で城から出て降伏する事を許した。この事に会津藩士らは感激した[5]。さらに「降伏した以上は、我ら等しく王民(日本の臣民)である」として、会津藩の罪を減ずるよう「寛典論(穏便なる処遇を求める嘆願)」を上奏。その趣意は「これからは海外諸国と対峙せねばならず、過酷な処分によって後世に遺恨を残し、日本民族統合の障壁になってはならない」とするものであった。また「有能な人材は、積極的に政府へ登用すべき」との意見を述べた。これに対して木戸孝允らは「厳罰論(厳しく処分すべきとする意見)」を唱え[注釈 6]、処遇問題に総督府内で意見対立があった。本来ならば、勅許の無き日本領土の割譲 [注釈 7]は万死に値する罪であったが、結局は会津攻略戦の主将である板垣が言うのならばと、意見が容れられ、家老が詰腹を切る事を条件に、藩主・松平容保の切腹や藩の改易処分を逃れ、減封処分が下る。さらに会津藩が斗南藩へ減石転封となった時は、板垣は藩士らが貧する様を見て特別公債の発給を書面で上奏している。板垣は会津攻略戦の官軍側・主将でありながら、維新後すぐから賊軍となった会津藩の心情を慮って名誉恢復に努めるなど、徹底して公正な価値観の持ち主であったため、多くの会津人が維新後、感謝の気持ちから土佐を訪れている。また、自由民権運動も東北地方では福島県を中心として広がりを見せることになった[6]。
脱走兵
旧幕府軍の残存兵力は会津を離れ、仙台で榎本武揚と合流し、蝦夷地(北海道)へ向かった(箱館戦争)。
会津藩が降伏したことで、今まで藩の重税に苦しんでいた農民たちにより、会津世直し一揆が起きた[7]。
戦場での残虐行為等について
石井孝の『戊辰戦争論』(1984年)には「政府軍は、征服者の常として、ずいぶん略奪・暴行を演じたようである」との記述がある。一方、石井が同書の中で引用している、英国医師ウィリアム・ウィリスの報告書の中には、「両軍の戦闘が熾烈を極めたにもかかわらず、ミカドの軍隊は、捕虜をかなり寛大に取扱ったようだ。これに対して、会津藩の軍隊は、ミカドの軍隊の兵士たちばかりか、捕えた人夫たちまでも殺したといわれる。この話の確証として、4日間も雪の中に倒れていて、両足の機能を失った一人の人夫に会ったことを私はここに記しておきたい。その人夫は、もし会津藩の兵士に捕まっていたならば、酷い死に目に遭わされていただろう、と私に語った」「そのほか、私は、会津若松で、世にも悲惨な光景を見た。たくさんの死体が堀から引き上げられた。彼らは、両手を背中にうしろ手に縛られ、腹を深く切り裂かれていた。私は会津藩の軍隊の兵士たちの、残酷行為の物語をいろいろと耳にした。長岡では、彼らは、ミカドの軍隊の病院にいる負傷者や医師たちを皆殺しにした、と聞いた。会津藩の軍隊の兵士たちは、退却して行く途中で女たちを強姦した。家々に盗みに入り、反抗する者は、みな、殺害した」「ミカドの軍隊も、会津藩の軍隊に負けず劣らず、残酷・残虐であった。会津の国で、ミカドの軍隊は、各地で略奪し、百姓の道具類までも盗んだという話を聞いた。これらの話は事実だろうか?どちらにしても、両軍の戦闘が会津若松に近づくにつれて、残酷・残虐の度合いが増していったことだけは疑いない事実である。」[8] との記述がある。
戦後処理
薩摩藩の軍監・桐野利秋や長州藩の参謀・前原一誠[注釈 8]の計らいで容保は死一等を減じられて謹慎となり、養子の喜徳とともに江戸(東京)に護送されることになった。
本来であれば、家老上席にあった西郷頼母・田中玄清・神保内蔵助が切腹するところであったが、西郷は行方知れず、神保と田中は城下での戦闘において自刃していたため、次席の萱野長修が、戦争責任を一身に負って切腹した。
江戸に送られることになった容保を、家臣たちは断腸の思いで見送りに来たが、これまで重税に苦しめられてきた領民たちは何の関心も示さず、見送りにも殆ど現れなかった[10]。
会津藩の領土は明治政府の直轄地として占領され、若松城下には政府機関である「明治政府民政局」が設置された。その後、各地で打ち壊しを行う農民たちに対して、明治政府は積極的に鎮圧はせず会津藩の旧村役人に交渉させ、一揆勢力の要求の多くを実現させた。
遺体の埋葬
新政府軍が遺体の埋葬を禁じたため、戊辰戦争で戦死した会津藩士の遺体が半年間、野ざらしにされた、という「埋葬禁止説」が1960年代以降流布してきた[11]。
しかし、2016年12月に、戦死した藩士らが埋葬されていたとする史料『戦死屍取仕末(せんしかばねとりしまつ)金銭入用帳』の写しが会津若松市で発見された[11][12]。この史料には、埋葬場所、埋葬経費などが詳細に記されている。写しによると、新政府は会津藩降伏の10日後の旧暦10月2日に埋葬を命令した[11]。翌日10月3日から同17日にかけ、会津藩士4人が指揮し、鶴ケ城郭内外などにあった567体の遺体を発見場所周辺の寺や墓など市内64カ所に集めて埋葬した[11]。埋葬経費は74両(現在の約450万円)、のべ384人が動員され、1人当たり1日2朱(同7500円)が支給された[11]。発見当時の服装や遺体の状態、山本権八など名前が記載されているものもある[11]。このうち、蚕養神社の西の畑にあった22体は近隣の60代女性が新政府軍の武士に頼み、近くに葬ってもらったとの記載がある[13]。
「埋葬禁止説」について、会津若松市史研究会の野口信一は、会津戦争から半年後の1869年2月に阿弥陀寺に遺体を改葬したことが『半年間も放置した』と誤認された要因とみる[11]。
斗南藩
領土を失った会津藩の武士らは、翌年の明治3年(1870年)謹慎を解かれて転封先として「猪苗代町(福島県耶麻郡)」と「斗南(現在の青森県むつ市)」のどちらかを明治政府により提示され、最終的に斗南を選択し、旧会津藩士4700名余が移住して三戸藩を立て、明治3年6月に名称を斗南藩と改めた。
会津出身の軍人・柴五郎によると「斗南」は漢詩からとったとの説が広く受け入れられているが、該当する古典漢詩が存在せず、会津藩士・秋月悌次郎が慶応元年(1865年)に蝦夷へ左遷された際に詠んだ「唐太以南皆帝州」との類似が指摘されている。一方、当時斗南藩の大属として藩政の中枢にいた竹村俊秀の『北下日記』には「「斗南」トハ外南部ノ謂ナリ」と記されており、当初「外南部」の略称に過ぎなかったものを大義名分に立って「北斗以南」の意義付けが行われたとの解釈もある[14]。
評価
会津藩一の成績優秀者で、年齢による白虎隊士除隊後から国費留学を経て、東京帝国大学総長などを歴任した山川健次郎は、会津藩は兵法や武器が時代遅れで、松平容保は幕府への忠誠心は厚かったが、情報に疎く藩主として藩内の多数派だった主戦論を抑えられなかったことを評している。京都御所警備という朝廷の付近での任務に就いていたのに、情報軽視や身分が硬直していた会津藩は、武士や地主以外の領民軽視で戦争の準備も軍制改革も遅かったとしている。和平主張する者を戊辰戦争末期まで排斥したことにも、国際感覚もあった神保修理の助言通り恭順するか、最低でも鳥羽・伏見の戦い後にでの圧倒的敗北後にもいた藩内強硬派こそ、藩主として処罰するか説得するなどして、時代の変化を理解して上手く立ち回るべきだったと述べている。山川は自身が戦後に物理学を選考した理由に、会津藩の朱子学など儒教重視で、理系軽視だったことを挙げている。しかし兄と共に旧会津地域の支援をし、兄の死後も明治34年(1901年)に、困窮した会津松平家のために、明治天皇から下賜された金銭を渡したりしている[15]。
蝦夷地売却とプロイセンの思惑
2013年、五百旗頭薫東大教授らの研究チームが、会津・庄内両藩が、プロイセンから資金を借りる担保として「蝦夷地の土地を99年間貸与すると申し出た」と記した駐日公使発本国向けの外交書簡を、ベルリンのドイツ連邦文書館で発見した。
「明治元年7月に会津藩・庄内藩がプロイセンに対し蝦夷地の土地売却の打診をしている。これまでは、ビスマルクが却下した為その話はたち消えになったと思われていた。 だが、ビスマルクが却下の3週間後に方針転換し交渉を認可していたことを示す文書がドイツ連邦軍事文書館で発見された。プロイセンではゴーサインが出ていたことが明らかになったのである」
それによると、「スネル兄弟(当時東北にいたプロイセン人の仲介役)が、借り入れに対して蝦夷地の領地を99年間、担保として与えるとする会津・庄内領主の(スネルに対する)全権委任状を持ってきた。100平方ドイツマイルの土地を得るのに30万メキシコドルで十分だ」などと書かれていた。
幕末期の会津藩の土地は、現在のオホーツク、根室管内の一部、庄内藩は留萌、上川管内の一部などであり、書簡には「会津・庄内藩の蝦夷地の土地に軍港はないが、ひとたび足がかりをつかめば他の地の購入が容易になるだろう」とも綴られており、海軍拠点確保に向けた意図が読み取れる。
蝦夷地売却の会津藩側の資料はないが、内密な交渉だったことを考えれば証拠は処分した可能性はある。会津藩は京都守護職のため財政が悪化、長岡・庄内藩のように新式大砲・鉄砲の調達資金がなく、各地で敗戦した。ブラントが横浜から本国の宰相に新発の書簡を発信した日付は1868年11月12日で、すでに会津藩の委任状から6日、庄内藩主が委任状を申し出てから5日経過しており、現実には交渉そのものが意味をなさなくなっていた。
- 「蝦夷地は気候が北ヨーロッパと酷似しており、土地は広大で水は豊か、農業牧畜に適している。蝦夷地は、5000人の海兵隊により、簡単に手に入れることができる」
- 「北海道がジャガイモや麦などの栽培に最適である。気候は北ヨーロッパと似ており、土地は広大、水は豊か、牧畜には最適である」
ドイツ人にとって、ジャガイモ、ムギ、そして放牧に格好の土地である蝦夷地は、喉から手が出るほどに有益な土地であった。
- 南部藩、津軽藩、松前藩、秋田藩、仙台藩
- 「ガルトネルが蝦夷地の土地を担保に、各藩と武器取引をした」
- ガルトネル開墾条約事件
- 箱館近郊の土地七重町、広さ300万坪1000haの土地を99年間借りる
- 蝦夷共和国と条約締結
- 1889年、明治新政府はガルトネルに租借契約解除を申請
- 明治政府は賠償金62500両をガルトネルに支払う
戦後と観光史学の影響
近年でも観光史学の影響で、会津地方の人々が「一方的に『朝敵』『賊軍』扱いされた遺恨がある」軋轢が報じられる事が多いが、史実では一般の会津民からではなく、会津藩士(やその親族)による薩長への遺恨のみ存在していた。
前述の通り、徴税や藩士優遇の前時代的な会津藩の苛烈な統治に不満を持つ会津民が多く、会津藩士や親族らの敵である新政府軍に協力した者も多数出た。移住処分や処罰も会津藩士やその親族のみに行われた上に、実際に会津戦後に明治政府が会津藩時代の統治を残そうとした際、逆に藩民から反発運動が起きたなど、会津藩の統治への不満が根強く、反発を受けて直接行うことにした明治政府による統治では、不和は起きなかった。旧会津藩士族らによる薩長への遺恨が、時代がくだり観光史学が普及以降は、会津藩打倒に協力者が続出していた旧会津藩地域の非藩士の子孫らから、薩長藩出身者への遺恨があったことになってしまっている[16]。
西南戦争では、会津戦争で戦った旧会津藩士らやその親族が薩摩の巨魁である西郷隆盛への恨みを晴らす目的で、征討軍に志願したと言われている。その中には元会津藩家老の山川浩や佐川官兵衛、会津藩士・柴佐多蔵の息子である柴四郎・五郎兄弟、(厳密には会津藩士ではないが)元新選組三番隊組長の斎藤一等もいたとされている。西南戦争、紀尾井坂の変と立て続けに発生した薩摩出身の政治家である西郷や大久保利通等の非業の死に対して柴五郎等は「当然の帰結であり断じて喜べり」と語っている[17]。
昭和61年(1986年)には長州藩の首府であった山口県萩市が、会津藩の首府であった会津若松市に対して、「もう120年も経ったので」と、会津戦争の和解と友好都市締結を申し入れたが、会津若松市が『まだ120年しか経っていない』として拒絶した。一方、会津藩と共に奥羽越列藩同盟の盟主であった庄内藩の首府だった山形県鶴岡市は、昭和44年(1969年)に、薩摩藩の首府・鹿児島県鹿児島市と兄弟都市盟約を締結している。
平成19年(2007年)、山口県第4区選出の衆議院議員・安倍晋三は、内閣総理大臣として会津若松市を訪問した際に「先輩がご迷惑をかけたことをお詫びしなければならない」と語った[18]。
平成23年(2011年)3月11日に発生した東日本大震災において、会津若松市は萩市から義援金や福島第一原子力発電所事故避難者用の救援物資の提供を受け[19]、会津若松市長・菅家一郎が萩市をお礼の意味で訪問したが[20]、菅家は「和解とか仲直りという話ではない」と述べた[18]。また、福島第一原子力発電所に於ける放射性物質の除染作業に、自衛隊で山口県駐屯の部隊が携わった際には、部隊長が福島県知事・佐藤雄平に直々に作業報告に出向いた。
平成24年(2012年)11月26日、萩市長・野村興児は、会津支援の一環として、会津若松市を訪問し、白虎隊士の墓前に献花を行った[21]。
平成25年(2013年)に放送された、NHK大河ドラマ『八重の桜』では、幕末の会津藩が舞台となっており、会津戦争のシーンでは、実際の歴史ではほとんど参戦しなかったはずの長州藩が、鬼の如く会津に攻め入ったかのように描かれていた為、山口県民からは不評を買っていた[22]。
平成28年(2016年)の報道によると、親から「長州の男との結婚だけは絶対に許さん」と言われ続けて育った子供が会津地方にはおり[23]、国道49号についても「明治時代に制定された会津を通る国道が忌み数「49」にされたのは長州の嫌がらせだ」と、真顔で述べる住人がいる[18]。しかし、実際に会津に国道が制定されたのは、明治時代ではなく昭和であり、国道49号が誕生したのも昭和38年(1963年)である。
平成30年(2018年)2月17日に放送された『新婚さんいらっしゃい!』では、福島県会津地方出身の男性が鹿児島県出身の女性と交際し恋愛結婚しようとしたものの、「夫が会津出身であること」を理由に、女性の父から結婚を認められず破局、30年以上経って父が他界した後に再会し、ようやく結婚することができたという夫婦が出演した[24]。
- このように結婚が反対されたという事例が見受けられるが、松平容保の五男・英夫が長州藩士で山田顕義の長女梅子と、山川浩、健次郎兄弟の妹・山川捨松が西郷隆盛の従弟で薩摩藩士・大山巌とそれぞれ結婚している事実は、余り知られていない。
令和4年(2022年)8月22日に開催された第104回全国高等学校野球選手権大会の決勝戦は会津若松市出身の加藤利吉が創立した仙台育英学園高等学校(宮城県)と下関国際高等学校(山口県)が対戦することになり、SNS上では会津戦争(戊辰戦争)になぞらえる声が上がった[25][26]。なお、試合は仙台育英が勝利し、東北の高校としては高校野球史上初の日本一となった[27]。
会津戦争を描いた作品
書籍
- 綱淵謙錠『戊辰落日』(文藝春秋)、1978年。のち文春文庫。
- 早乙女貢『会津士魂』(歴史小説)
- 星亮一『会津白虎隊』(歴史小説)
- 宮崎十三八『物語会津戦争悲話』(歴史小説)
- 間島勲・小桧山六郎編『幕末・会津藩士銘々伝』
- 杉山義法、小島剛夕『白虎隊』日本テレビ放送網株式会社、1986年
- 奈倉哲三ほか『戊辰戦争の新視点』(プロイセンの思惑)吉川弘文館 2018年
- 池月映『会津人群像№47』「お金がなかった戊辰戦争(会津藩とプロイセン)」歴史春秋社 2024年2月
映像作品
脚注
注釈
- ^ 水戸藩・諸生党は奥羽越列藩同盟側に加勢、北越戦争参加後、1868年会津戦争・篭城戦で北越戦線から会津へ戻り会津藩内の婦女子を救済、各地で会津藩兵らと共に奮戦した。福島県会津若松市一箕町の白虎隊記念館敷地内に、会津で命を落とした水戸藩士らの「諸生党鎮魂碑」がある[1]。
- ^ うち少年兵500余
- ^ 旧幕府兵・民兵など含む、諸説あり
- ^ 城内防衛
- ^ 最年少隊士の飯沼貞吉のみは蘇生し、昭和6年(1931年)まで生存。
- ^ という説はあるが、信頼できる一次史料で確認できるものはない
- ^ 条約書面上は「99年間の租借」
- ^ 敵ながら会津藩の態度や戦いぶりに、ある種の共感に似た感情を抱いていた前原は、木戸孝允に会津藩への厳罰を避ける旨の手紙を書いている[9]。
出典
関連項目
外部リンク
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白石会議より参加した藩 | |
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白石会議以降の参加藩 | |
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後に参加した北越の藩 | |
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途中脱退した藩 | |
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戊辰戦争 | |
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