棚倉藩(たなぐらはん)は、陸奥国(磐城国)白河郡・菊多郡・磐前郡・磐城郡などを支配した藩。藩庁は白河郡棚倉城に置かれた(現在の福島県東白川郡棚倉町)。
藩史
戊辰戦争では、正静が藩兵を率い奥羽越列藩同盟に参加、白河口において新政府軍と対峙。
- 1868年(慶応4年)6月24日 棚倉城落城、正静は降伏した。維新後は4万石減封。
- 1871年(明治4年)阿部正功の代のときの廃藩置県により廃藩となる。城趾には現在、公園と町の公民館がある。水堀のまわりには桜の木が立ち並び、毎年春には町民の花見場所となっている。
棚倉藩はしばしば、中級、下級の譜代大名の懲罰的な目的での転封の対象地になり、また藩主家の長期の定着がなく、藩の支配体制は不完全なまま経てきた。石高は、表高より内高(実際に藩の収入になる石高)が少ない藩であった。
特徴
- 山城の赤館を拠点とした周辺は、鎌倉時代は陸奥国(伊達氏)の影響下にあり、室町時代は常陸国の影響下にあった。陸奥と常陸の対峙する地理的条件から、たびたび戦場となった。
- 戦国時代後期は、陸奥国の伊達政宗が赤館を支配し、常陸国の佐竹家に対して防衛をはっていた(現在の棚倉一帯をとりあげた歴史資料や著作では、この時代のものが他の時代より比較的多く発行されている)。
- 棚倉藩の城下町の祖型は、丹羽長重の棚倉城築城にはじまり、明治4年(1871年)まで246年間続いた。
- 慶長の立花宗茂から明治の阿部正功まで数えて、藩主は9家18人が入れ替わった(実施されなかった戸田家除く)。
- 元治元年(1864年)、松平康泰が子のないまま没すると、分家筋の旗本で外国奉行・江戸南町奉行・勘定奉行として功績のあった松平康直(康英と改名)が養子として藩主を継いだが、翌元治2年/慶応元年(1865年)には天狗党の乱に関連して処罰を受けた宇都宮藩主の戸田忠恕(7万7千石)と領知替えが決まった上に康英自身も老中に抜擢されることになった。ところが、朝廷の介入によって忠恕が赦免されたために転封も中止されて、宇都宮への移封がなくなった康英には代わりに2万石が加増された。ところがその直後に今度は兵庫開港要求事件に関連して処罰を受けた白河藩主の阿部正静(10万石)と領知替えが決まったが、朝廷の介入による処分であったために正静が抵抗して白河城の明け渡しが進まなかったために康英の白河への移封が再び中止され、慶応2年(1866年)10月になって3度目にして武蔵国川越藩(8万4千石)への移封がようやく決定された。
歴代藩主
立花家
外様 1万石→2万5500石→3万5000石
- 立花宗茂
丹羽家
外様 5万石
- 丹羽長重
内藤家
譜代 5万石
- 内藤信照
- 内藤信良
- 内藤弌信
太田家
譜代 5万石
- 太田資晴
松平(越智)家
親藩 6万5000石
- 松平武元
小笠原家
譜代 6万5000石
- 小笠原長恭
- 小笠原長堯
- 小笠原長昌
井上家
譜代 6万石
- 井上正甫
- 井上正春
松平(松井)家
譜代 6万石
- 松平康爵
- 松平康圭
- 松平康泰
- 松平康英
阿部家
譜代 10万石
- 阿部正静
- 阿部正功
幕末の領地
明治維新後に白川郡37村(旧幕府領36村、旧小見川藩領1村)、菊多郡14村(旧磐城平藩領9村、旧泉藩領5村)が加わった。
関連項目
外部リンク
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藩庁の置かれた地域を基準に分類しているが、他の地方に移転している藩もある。順番は『三百藩戊辰戦争事典』による。 明治期の変更: ★=新設、●=廃止、○=移転・改称、▲=任知藩事前に本藩に併合。()内は移転・改称・併合後の藩名。()のないものは県に編入。 |
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白石会議以降の参加藩 | |
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後に参加した北越の藩 | |
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