請西藩(じょうざいはん)は、江戸時代後期に上総国に存在した藩。望陀郡請西村(現在の千葉県木更津市請西)の真武根陣屋(まふねじんや。請西陣屋とも)を藩庁とした。戊辰戦争時に藩主の林忠崇が新政府軍と交戦したため、戦後に改易された唯一の藩として知られる。
林家が1825年に大名になった当初は、望陀郡貝淵村(現在の木更津市貝渕)の貝淵陣屋を藩庁としていた。1850年に請西に移転するまでの林家の藩については貝淵藩(かいふちはん)とも呼ばれる。明治維新期には駿河国小島藩主であった滝脇松平家が当地に移され、名義上は望陀郡桜井村を藩庁所在地として桜井藩(さくらいはん)が設置されたが、この藩庁(桜井陣屋)は貝淵陣屋を転用したものである。貝淵・桜井・請西村は隣接関係にあり、貝淵(桜井)陣屋は貝淵・桜井両村の境界線に沿った貝淵村側にあった。
本項では貝淵藩・桜井藩についても併せて解説する。
歴史
1.
真武根陣屋(請西陣屋) 2.
貝淵陣屋(桜井陣屋) 3.
八剱八幡神社(この周辺が近世の港町・木更津にあたる)
貝淵・請西藩
貝淵藩
林家(三河林氏)は小笠原氏の支流を称する三河譜代の家である。江戸時代に入ると旗本として代々番方を勤めており、元禄年間に長崎奉行や町奉行を務めた林忠和(忠朗)は加増を受けて3000石を知行した[1]。忠和の後は忠勝―忠久―忠篤―忠英と続く。
林家の家伝によれば、松平家の祖である有親・親氏親子が信濃で窮した際に、筑摩郡林郷(現在の長野県松本市里山辺付近)に住していた旧知の林光政(林家の祖先)を頼ったことがあった。光政は雪の中で兎を捕らえて吸い物にし、有親・親氏に振る舞った[2][注釈 2]。これを開運の嘉例とし、徳川幕府の下では正月行事として、林家が将軍に兎の吸い物を献上し、将軍から一番に酒を賜るという「献兎賜盃」の儀式が行われることとなっていた[2]。
天明7年(1787年)4月に徳川家斉が11代将軍に就任すると、忠英は小姓として仕え、家斉の寵臣となった。寛政8年(1796年)に家督を相続した忠英は、小姓番組頭格・御用取次見習・御側御用取次などと栄進し、さらに加増を重ね、文政5年(1822年)には7000石を知行する。
文政8年(1825年)4月、若年寄に昇進して3000石の加増を受け、計1万石の大名に列して貝淵藩が成立した。天保5年(1834年)12月には3000石、天保10年(1839年)3月には江戸城修築などの功を賞されて5000石を加増され、計1万8000石を領した。しかし、家斉が天保12年(1841年)1月に死去すると、将軍家慶と老中水野忠邦による粛清を受け、4月に8000石を没収されたうえ、若年寄も罷免された。さらに同年7月には強制隠居を命じられた。
天保14年(1843年)6月には、天保の改革の一環として行われた印旛沼堀割の手伝普請を命じられた。家斉没後に8000石もの加増地を失った藩財政はさらに逼迫した。
請西藩
嘉永3年(1850年)11月、忠旭は藩庁を貝淵陣屋から1.5kmほど内陸に位置する望陀郡請西村の高台に築いた真武根陣屋(請西陣屋)に移した。以後この藩は請西藩と呼ばれる。貝淵陣屋の方も藩の地方役所としてそのまま使われた[注釈 3]。
2代藩主忠交は伏見奉行在任中の慶応3年(1867年)に急死し、若年の嫡男忠弘に代わって甥の忠崇が家督を相続した。
慶応4年(1868年)、上総に転じた遊撃隊による助力要請に接した忠崇は旧幕府側に与することを決し、自ら脱藩して同藩士とともに遊撃隊に加わった。出陣に際して請西の陣屋を自ら焼き払っている[4]。
忠崇らは房総や相模で新政府軍と戦闘したのち、以後は旧幕府勢力の籠る東北各地に転戦した。こうした忠崇の行動は新政府の怒りを買い、明治元年(1868年)に所領を没収された。戊辰戦争のうち城地をすべて没収されたのは請西藩と会津藩会津松平家のみであるが、会津松平家は松平容大に対して新たに斗南藩3万石が下賜され、華族に列されている[5]。そのため林家は、江戸時代には諸侯でありながら明治政府に諸侯として認められず、華族にはならなかった唯一の家[6]として知られている[注釈 4]。
明治維新後の林家
仙台に転戦した忠崇は、徳川宗家が駿府70万石の諸侯として存続するとの報に接し、新政府軍に降伏した。以後は江戸の唐津藩邸にて幽閉される。明治2年(1869年)、同家は忠弘を当主とする300石の東京府士族として存続した。忠崇も明治5年(1872年)に赦免されたものの、家禄の削減・廃止もあり、以後は職を転々とする困窮した生活を送った。
1889年(明治22年)、大日本帝国憲法発布にともなう大赦によって西郷隆盛の名誉が復権するや、旧藩士らは林家の復権運動を起こす。1893年(明治26年)、忠弘に対して男爵が授けられた。
なお、忠崇は長命を保ち、1941年(昭和16年)に94歳でこの世を去った。幕藩体制下で大名であった人物では最後まで生きた人物であり、俗に「最後の大名」[7][8]と呼ばれることのある一人である[注釈 5]。
桜井藩
明治元年(1868年)7月13日、駿河国小島藩から1万石で松平信敏(のち滝脇信敏と改姓)が上総国に移転した。当初は上総国周准郡南子安村金ヶ崎(現在の君津市南子安)[注釈 6]に子安陣屋を置いて藩庁とし、金ヶ崎藩と称した。しかし翌年3月[注釈 7]に藩庁を望陀郡桜井村に移し、桜井藩に改称した。南子安村の交通が不便であったためとされている。
桜井藩が藩庁としたのは貝淵陣屋であった(貝淵陣屋参照)。この背景には、貝淵藩(請西藩)が朝敵として改易された経緯から「貝淵藩」の名称を避け、隣村の名前を取って「桜井藩」と称したのが実情のようである。信敏は藩内における治水工事に尽力した。
桜井県
明治4年(1871年)の廃藩置県により、桜井藩は廃藩となって桜井県となった。同年11月、第一次府県統合によって房総半島の諸県を統合した木更津県が成立した。木更津県の県庁は貝淵陣屋(桜井陣屋)に置かれた。
歴史地理学者の中島義一は、当時の木更津と貝淵は別集落とみるべきで[注釈 8]、「木更津が県庁所在地であったというのは当たらない」という。1873年(明治6年)に木更津県は印旛県と合併して千葉県となった。
歴代藩主
貝淵藩
- 林家
譜代 1万石→1万3000石→1万8000石→1万石(1825年 - 1850年)
請西藩
- 林家
譜代 1万石(1850年 - 1868年)
桜井藩
- 松平(滝脇)家
旧譜代 1万石(1868年-1871年)
領地
請西藩(幕末)
「旧高旧領取調帳」に記載があるのは5,982石分のみとなっている。
- 上総国
- 周淮郡のうち - 1村(安房上総知県事を経て桜井藩に編入)
- 望陀郡のうち - 13村(うち8村を安房上総知県事を経て桜井藩、2村を安房上総知県事を経て三河吉田藩、2村を安房上総知県事を経て三上藩、1村を安房上総知県事を経て久留里藩、2村を久留里藩に編入)
- 市原郡のうち - 15村(うち8村を安房上総知県事を経て鶴舞藩、6村を安房上総知県事を経て菊間藩、1村を安房上総知県事を経て桜井藩、1村を菊間藩に編入)
- 上野国
桜井藩(廃藩時)
「旧高旧領取調帳」の記載では1万8,417石余。
- 上総国
- 周淮郡のうち - 26村(旧飯野藩領1村、前橋藩領6村、安房上総知県事領19村【内訳は旧幕府領8村、旗本領7村、与力給地2村、飯野藩領4村、請西藩領1村、前橋藩領1村】)
- 望陀郡のうち - 25村(旧前橋藩領2村、安房上総知県事領23村【内訳は旧久留里藩領15村、請西藩領8村】)
- 市原郡のうち - 1村(旧請西藩領の安房上総知県事領)
なお、いずれも相給が存在するため、村数の合計は一致しない。
脚注
注釈
- ^ 赤丸は本文内で藩領として言及する土地。青丸はそれ以外。
- ^ 里山辺の広沢寺境内に、光政が兎を捕らえた場所という「兎田」の碑がある。
- ^ 中島義一によれば、請西には藩主居館のみが移り、政務は貝淵でとられたといい、居所と政庁所在地が分離した例としている。
- ^ ただし、大政奉還時には大名であったものの華族とされなかった例としては他に、安房船形藩主・平岡家がある。若年寄であった平岡道弘は、元治元年(1864年)に大名となったものの慶応4年(1868年)に自ら廃藩して徳川家に従い、のちに静岡藩大参事となった。
- ^ 「最後の大名」にはいくつかの解釈がある。分部光謙参照。
- ^ 中島は金ヶ崎藩庁の所在地を上総国八重原村南子安(字金ヶ崎)とするが、「八重原村」は町村制施行後の村名である。
- ^ 中島は移転時期を明治元年8月とする。
- ^ 1889年(明治22年)の町村制施行により、木更津村・貝淵村ほか1村が合併して木更津町が成立する。
出典
参考文献
ウィキメディア・コモンズには、
請西藩に関連するカテゴリがあります。
先代 (上総国) (事実上の前身は請西藩)
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行政区の変遷 1868年 - 1871年 (桜井藩→桜井県)
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次代 木更津県
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関連項目 | |
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藩庁の置かれた地域を基準に分類しているが、他の地方に移転している藩もある。順番は『三百藩戊辰戦争事典』による。 明治期の変更: ★=新設、●=廃止、○=移転・改称、▲=任知藩事前に本藩に併合。()内は移転・改称・併合後の藩名。()のないものは県に編入。 |