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この項目では、下総国に所在した藩について説明しています。陸奥国津軽地方の高岡城(1628年に弘前城と改称)に藩庁を置いた藩については「弘前藩」をご覧ください。 |
高岡藩(たかおかはん)は、下総国香取郡高岡村(現在の千葉県成田市高岡)の高岡陣屋に藩庁を置いた藩。1640年に大目付の井上政重が大名に列した。初期には定府であり、高岡を居所と定めたのは3代藩主の時である。以後廃藩置県まで譜代大名井上家が治めた。存続期間の大部分において石高は1万石。
歴史
高岡周辺は、中世には大須賀荘の一部で[2]、高岡にある天台宗の寺院・眞城院は寺伝によれば応永3年(1396年)に創建されている。高岡村は江戸時代初期には佐倉藩領となっていた[2]。なお、近世に近隣の滑河(滑川)村には「滑河河岸」[3][4][注釈 2]、猿山村には「源太(源田)河岸」があり[5]、利根川水運の要衝として栄えた地域である[5]。
藩祖である井上政重(井上正就の弟)は徳川秀忠・家光の2代に仕えて大坂の陣などで功績を挙げ、御書院番士・大目付(当時は惣目付という名称)などを歴任して次第に加増を受け、島原の乱でも戦後処理などで功を挙げた。こうした功績によって寛永17年(1640年)6月12日、政重は6000石を加増されて1万石を領する大名となった[6]。ただし、当時は高岡に陣屋は築かれず、江戸に定府していた。政重はその後もキリシタンの取締りのために宗門改役を設置し、長崎出島における交易制限を行なうなど、鎖国体制の確立に尽力した。この功により寛永20年(1643年)5月23日、3000石を加増された。政重は万治3年(1660年)7月9日に、加齢を理由として家督を井上政清に譲って隠居する。
第2代藩主・政清のとき、弟の井上政則に1000石、井上政明に500石を分与したため、高岡藩領は1万1500石となる[6]。第3代藩主・井上政蔽のとき、高岡に陣屋が築かれた(高岡陣屋)[7]。また、弟の井上政式に1500石を分与したため、高岡藩領は1万石となった[7]。高岡藩の領地は上総・下総に分散しており、早い時期から財政難に陥っていたという[8]。元禄年間、政蔽は財政家として知られる松波勘十郎(良利)を招聘して財政再建を委ね、成功したとされる[9]。
高岡藩は尾張藩とつながりが深く、第6代藩主・井上正国は徳川宗勝の十男、第7代藩主・井上正紀は尾張藩の付家老家である竹腰勝起の次男である。第10代藩主・井上正和は文久2年(1862年)に江戸藩邸内に藩校・学習館を創設した[8]。儒学者朝川善庵門人の随朝欽哉などが教授し、藩士だけではなく庶民の入学を許可した開放的な藩校であった。
譜代井上家は他に常陸下妻藩主家もあり、みな明治維新を迎えている。
最後の藩主・井上正順は明治2年(1869年)の版籍奉還で知藩事となる。2年後の廃藩置県で高岡藩は廃藩となり、高岡県となる。のちに高岡県は新治県を経て千葉県に編入された。
歴代藩主
- 井上家
譜代。菊間広縁・陣屋[10]。1万石→1万3000石→1万1500石→1万石。
- 井上政重(まさしげ):従五位下。筑後守(大目付)
- 井上政清(まさきよ):従五位下。筑後守(大坂加番・駿府加番)
- 井上政蔽(まさあきら):従五位下。筑後守(駿府加番)
- 井上政鄰(まさちか):従五位下。筑後守
- 井上正森(まさもり):従五位下。山城守
- 井上正国(まさくに):従五位下。筑後守(大坂定番・奏者番)
- 井上正紀(まさのり):従五位下。壱岐守
- 井上正瀧(まさたき):従五位下。筑後守
- 井上正域(まさむら):従五位下。筑後守(祭祀奉行)
- 井上正和(まさよし):従五位下。筑後守(祭祀奉行)
- 井上正順(まさより):従五位下。宮内少輔
幕末の領地
脚注
注釈
- ^ 赤丸は本文内で藩領として言及する土地。青丸はそれ以外。
- ^ 滑川村には9世紀創建と伝える龍正院(滑河観音)がある[4]。滑川村は高岡藩領にはなっていない[4]。
出典
参考文献
関連項目
外部リンク
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関連項目 | |
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藩庁の置かれた地域を基準に分類しているが、他の地方に移転している藩もある。順番は『三百藩戊辰戦争事典』による。 明治期の変更: ★=新設、●=廃止、○=移転・改称、▲=任知藩事前に本藩に併合。()内は移転・改称・併合後の藩名。()のないものは県に編入。 |