会田村(あいだむら)は長野県東筑摩郡にあった村。現在の松本市北東部の一角にあたる。
地理
概要
平安時代以降、会田御厨が成立し、江戸時代には北国西街道の会田宿が置かれた。
歴史
- 1874年(明治8年)1月23日
- 筑摩県筑摩郡執田光村・井刈村・北山村・落水村・西宮村・宮本村・会田町村が合併して会田村となる。
- 筑摩県筑摩郡谷原町村・七嵐村・赤怒田村・殿野入村・反町村・金山町村・保福寺町村・取出村・板場村・穴沢村が合併して刈谷原村となる。
- 1881年(明治14年)8月25日 - 刈谷原村が分割して刈谷原町村・七嵐村・赤怒田村・殿野入村・反町村・金山町村・保福寺町村・取出村・板場村・穴沢村となる(刈谷原町村・七嵐村・赤怒田村・殿野入村・反町村・金山町村は町村制施行時に錦部村の一部となる)。
- 1876年(明治9年)8月21日 - 長野県の所属となる。
- 1879年(明治12年)1月4日 - 郡区町村編制法の施行により、会田村・刈谷原村が東筑摩郡の所属となる。
- 1889年(明治22年)4月1日 - 町村制の施行により、取出村・板場村・穴沢村および会田村の一部(宮本・会田町)の区域をもって会田村が発足(会田村の残部は五常村となる)。
- 1955年(昭和30年)4月1日 - 錦部村・中川村・五常村と合併して四賀村が発足。同日会田村廃止。
- 2005年(平成17年)4月1日 - 四賀村が松本市に編入。
交通
道路
現在は旧村域を長野自動車道が通過するが、当時は未開通。
その他
村内ではマツタケが豊富に生産されており、1950年代には観光客向けの松茸狩りも盛んにおこなわれていた。1953年9月26日には、松茸狩りの客18人を乗せたオート三輪トラックが転落、15人が死傷する事故も起きている[1]。
脚注
- ^ 「オート三輪が転落」『朝日新聞』昭和28年9月27日夕刊3面
参考文献
関連項目