佐賀の乱
佐賀の乱(さがのらん)は、1874年(明治7年)2月に江藤新平・島義勇らをリーダーとして佐賀で起こった明治政府に対する士族反乱の一つである。佐賀の役[1]、佐賀戦争[2]とも。不平士族による初の大規模反乱であったが、電信の情報力と汽船の輸送力・速度を活用した政府の素早い対応もあり、激戦の末に鎮圧された。 佐賀軍の概要征韓論問題で下野した前参議江藤新平を擁する中島鼎蔵等の征韓党と、前侍従・秋田県権令島義勇、副島義高等を擁する憂国党による混成軍。旧佐賀藩士を中心とした部隊であり、以後続発する士族による反乱の嚆矢となった。 乱を率いた江藤と島は、そもそも不平士族をなだめるために佐賀へ向かったが、政府の強硬な対応もあり決起することとなった。しかし、半島への進出の際には先鋒を務めると主張した征韓党と、封建制への復帰を主張する反動的な憂国党はもともと国家観の異なる党派であり、各々の党首である江藤と島がそりが合わない間柄であることも加わって主義主張を共有してはいなかった。そのため、両党は司令部も別であり、協力して行動することは少なかった。また、戊辰戦争の際に出羽の戦線で参謀として名をはせた前山清一郎を中心とする中立党の佐賀士族が政府軍に協力したほか、武雄領主鍋島茂昌など反乱に同調しないものも多く、江藤らの目論んだ「佐賀が決起すれば薩摩の西郷など各地の不平士族が続々と後に続くはず」という考えは藩内ですら実現しなかった。 佐賀の乱における佐賀軍の総兵数は詳しく判明していない。戦後に行われた裁判では赦免となったものも含めると約11,000ほどになるが、明治5年の版籍奉還時に提出された佐賀藩士の総数が約14,000ほどであることや、戦死者数が200人以下であることを考えると、全てが乱に加担した人数では無いと考えられている。明治7年に鎮圧に当たった参謀少佐渡辺央らが西郷従道に提出した「降伏叛徒概計」に6,327人とあり、徳富猪一郎は著書『近世日本国民史 89』でこれが実数に近いであろうと記している[3]。しかし、これには戦闘に参加せずに降伏した数も含まれているとして、江藤新平の弟の孫に当たる鈴木鶴子が著書「江藤新平と明治維新」で征韓党が1500人、憂国党が3500人と記している[4]など、およそ3,000人から6,000人ほどではなかったかとする説が主張されている。なお、記録に残るもので最も多いのは、佐賀城占拠後に山中一郎が戦果を喧伝するために各地に出した手紙にある「憂国党が一万、征韓党が五千、ほかにも各地から士族が集まっている」とするものだが、これは明らかに誇大なものと観られている。逆に少ないものでは、新潟県士族桜井虎太郎による探索書(国立国会図書館蔵「三条家文書」に収録)に「蜂起した総人員は8000人余であるが真に暴挙に及んだのは300名ほどであった。」との記載がある。 憂国党佐賀城下南に位置する「宝琳院」を本拠地とし、「宝琳院会」「憂国大社」「南組」などと呼ばれた。征韓党と比較すると、藩では位の高かったものが多く、壮年のものも多かった。幹部は旧藩時代には、組頭、代官、目付などの地位にあった[注釈 1]。征韓党より大規模でもあった。
征韓党佐賀・与賀町の「延命院」に本拠を置き、「延命院党」「征韓大社」「開化党」「北組」などと呼ばれた。憂国党幹部と比較すると、若年の下級士族[5]が中心で、官僚、軍人、県官の現職が多い。 明治7年1月下旬に[6]、香月経五郎、石井貞興ら征韓派の県官が佐賀県庁を掌握した。征韓派県官は、武器・弾薬・資金・糧食などの準備に職権を利用した[注釈 2]。なお征韓党は、県庁機構を私物化したが、日常業務は継続されていた。
憂国党、征韓党の軍事編成憂国党、征韓党の開戦時の勢力は両党の政治的思想に自主的に集まった士族の有志勢力であった。開戦後は、旧佐賀藩の上級家臣の三支藩、親類、親類同格などの支配地領域を単位とする勢力[注釈 3]が加わっている。なお、元三支藩などの領主のほとんどは両党に対して、関係せずに中立を維持している[注釈 4]。 憂国党の軍事編成は、4個大隊編成である。『「佐賀の役」と地域社会』[8]による推定兵力は、
征韓党の軍事編成は、『「佐賀の役」と地域社会』[8]による推定兵力は、
概要薩摩や長州など諸藩の武士で構成された部隊が官軍を編成した戊辰戦争と違い、1873年(明治6年)に制定された徴兵令による国民軍が軍隊を編成して初めての大規模な内戦である。また、1871年から1876年までの短期間ながら大日本帝国海軍に存在した海兵隊も戦闘に参加した。このほか、蒸気船(佐賀の乱には東艦・雲揚・龍驤・鳳翔の軍艦4隻、大坂丸など運送船9隻、チャーターした英米船2隻の計15隻が出動している)による迅速な行軍や電信技術なども使用されている。徴兵による鎮台兵は佐賀士族に対して善戦し、徴兵による軍隊が戊辰戦争を経験した士族とも互角に渡り合えることを示した。 このほか、大久保利通内務卿は、佐賀士族の蹶起によって刺激された福岡県士族が呼応して暴発することを未然に防ぐために、福岡県権参事の山根秀助(福岡県士族出身)に佐賀討伐の士族の徴募を指示している。これにより福岡県士族3600人が福岡城の大手門前広場に集まり、佐賀征討の軍事行動への参加を志願。その中から500人だけを選抜して、小銃と弾薬を与えて戦線に投入している。このほか、旧小倉藩からも500人の士族が志願している。士族の徴募は、軍事上の必要性ではなく、明治維新という大変動のあおりをくって、不平と鬱屈を詰まらせている士族の熱を、政治上の必要性から吐き出させるためのものであった。 ほか、不慣れな軍装による長距離の遠征で兵の多くが靴ずれを起こし進軍が遅れた例がある。また電信も、迅速な情報の伝達に威力を発揮したが、最初期に命令を受けた熊本鎮台への電信は佐賀を経由して伝えられたため、当然の如く命令は佐賀軍の知ることとなるなど幾つかの問題点も発生している。 開戦前征韓論をめぐる明治6年の政変で中央を追われた江藤は、板垣退助や副島種臣、後藤象二郎からの説得や警告を受け流し、太政官より発せられた、「前参議は東京に滞在すべし」との御用滞在の命令を無視する形で佐賀に戻った。なお、江藤と同郷の大木喬任は、高木秀臣から江藤出発の報を聞くや、即座に佐賀出身の官吏を3人派遣して強引に江藤を連れ戻そうとしたが、彼らが横浜に着いた時には、すでに江藤が乗船した船は出航した後だった。このころの佐賀は、征韓論を奉じる反政府的な「征韓党」と、封建主事への回帰を目指す保守反動的な「憂国党」が結成されるなど、政情は不安定で政府からもマークされていた。 そのような情勢下、明治7年2月1日、憂国党に属する武士が官金預かり業者である小野組におしかけ、店員らが逃亡するという事件が起こった。これは即、内務省に電報[12]で通知され、2月4日、政府は熊本鎮台司令長官谷干城に佐賀士族の鎮圧を命令した。これが佐賀の乱の第一歩である。 その中、島義勇は三条実美の依頼により、沸騰する佐賀県士族を鎮撫するため佐賀に向かったが、たまたま同船した岩村高俊の佐賀士族を見下した傲岸不遜な態度に憤慨し、さらに岩村に同行していた権中判事の中島錫胤から岩村が兵を率いて佐賀城に入る予定と聞き、父祖の地を守るためには官兵を打ち払わなければならないと決意。それまで不仲だった江藤と会談し、共に発つ決意を固めた。 さらに、明治7年2月9日、佐賀に於ける軍事・行政・司法の三権全権の委任を受けていた大久保利通内務卿は、文官でありながら兵権を握る権限を得ており、嘉彰親王(後の小松宮彰仁親王)が征討総督として現地に着任するまで、すべての事項を決裁した。大久保は東京から引き連れた部隊に加えて大阪の鎮台部隊等を直ちに動員し、博多に向かい、20日に到着すると現地で貫属隊の名目で兵を集める一方、本隊を指揮する野津鎮雄を朝日山へ向かわせ、博多の本陣には山田顕義を残した。後に三瀬峠に佐賀軍の別働隊を発見し山田顕義麾下の部隊を派遣した。 佐賀城攻防戦政府からの鎮圧命令を受けた熊本鎮台だが、兵の中にも佐賀出身が多く動揺が広がっていた。司令長官谷干城も援軍を待っての進軍を主張していたが、新県令岩村高俊の要請もあり、2月14日には駐屯する1個半大隊の中から、第十一大隊(大隊長:中村重遠中佐は出張中で不在)を二分し、左半大隊(332名)は参謀山川浩少佐と隊長和田勇馬大尉が率い海路から、右半大隊(316名)は参謀佐久間左馬太少佐と隊長山代清三大尉が率いて陸路から佐賀に向かった。翌2月15日に海路軍に護衛された岩村高俊らが佐賀に入城すると、江藤らは政府の真意を確かめるため山中一郎を代表として派遣した。しかし岩村の「答える必要はない」との返答を受けた。16日朝、県庁が置かれた佐賀城(佐賀県佐賀市)に籠もる左半大隊(332名)と佐賀軍が交戦した。左半大隊は佐賀軍と連日にわたり戦うが、17日に兵糧がつきた。左半大隊は右半大隊の合流を目指して、18日夜に佐賀城を脱出する。左半大隊は佐賀軍の待ち伏せにあって大損害(3分の1が死亡)を与えられた。佐賀の乱における政府軍の死者は大部分がこの戦闘におけるもので、佐賀県大属小出光照、中隊長大池蠖二大尉(佐賀の乱での官軍戦死者で最高位の一人)、沢田正武中尉が戦死、敗走中に包囲された津井城郷吉中尉が自刃したほか、山川浩少佐、奥保鞏大尉が重傷、西島助義少尉が捕虜となった。また、この時、憂国党の副島義高は捕虜を殺害しないよう通達を出したが、佐賀城からの脱出時に岩村の命で公金2,000円を携行していた佐賀県権中属の中島脩平に対しては、これを公金横領と看做して処刑した。なお、この敗走中、兵卒の谷村計介が単身先行し渡船を調達して部隊を窮地から救った。これにより、左半大隊は久留米に留まっていた右半大隊との合流に成功した。 2月22日以降の戦闘一時的に佐賀城を失った政府軍だが、すでに東京鎮台などを率いて福岡入りしていた大久保利通は、野津鎮雄少将が率いる政府軍本隊として第四大隊(厚東武直少佐)・第十大隊(茨木惟昭少佐)及び第三砲隊(山崎成高大尉[13][注釈 8])を福岡との県境にある要衝「朝日山」(現:鳥栖市)に進撃させると共に、佐賀軍の別働隊を「三瀬峠」、椎原口などに認めたことから第十大隊第三中隊(小笠原義従大尉)を本陣警護として博多に残した。また、「府中」(久留米市御井町)まで退却した第十一大隊は、筑後川から「千栗」「豆津」(現・みやき町)周辺の佐賀軍を撃ち、朝日山で本隊と合流することにした。さらにこれ以外にも長崎に上陸した外務少輔山口尚芳が遠武秀行海軍秘書官ほか現地海兵隊を護衛に大村から武雄に向かい、乱への参加に消極的だった佐賀藩武雄領の説得を行わせている。これに対し、佐賀軍は長崎街道沿いを征韓党が、筑後川沿いを憂国党がそれぞれ受け持つことに決め、征韓党は朝日山に田尻種博(戊辰戦争時の大隊長)と井上考継を先鋒に西義質らを向かわせ、2月22日にはこの政府軍部隊を迎撃した。憂国党の指揮は村山長栄が取り、本隊との合流を目指す熊本鎮台部隊を迎撃した。 朝日山の戦い二日市から原田を経て、田代(鳥栖)に入った野津少将率いる政府軍の本隊は2月22日朝日山に向かい、第四大隊と第三砲隊は轟木道から正面へ、第十大隊の半数が山浦から側面に、残る半数が宿村から背後に出て包囲攻撃を行った。佐賀軍も猛烈に反撃したがすぐに弾薬が枯渇したため支えることが出来ず、中原に敗走し、ここでも敗れて隘路である切通で反撃に出た。このとき追撃を担当した第四大隊は分散しており1中隊のみで相対したため苦戦したが、最後にはこれも退け、苔野まで前進したのち中原まで退き、笛吹山から原古賀の佐賀兵を掃討した第十大隊と合流して宿営した。また、夜半には佐賀兵の夜襲も撃退した。これに対し第十一大隊は朝日山の本隊に合流しようと筑後川を渡り、千栗・豆津・江見などで佐賀軍を破ったものの、六田で奇襲を受け、永山貞応中尉が戦死するなど大損害を出し筑後川を渡り住吉(久留米市安武町)まで退却した。その後夜間再度渡河して千栗に宿営したため、この日の戦力の結集には失敗した。 寒津川・田手川の戦い翌23日、政府軍は第十大隊を前軍とし、第三砲隊が続行、第四大隊を後軍として中原を出発。前夜合流した前山隊が中原の守備に当たった。佐賀軍は寒津村(現:みやき町)に本陣を置き、寒津川沿いで迎撃、中島鼎蔵の指揮の下左右から挟撃し、『佐賀征等戦記』に「官兵殆ど敗れんとす」と記されるほどまで追い込んだが、官軍指揮官の陸軍少将野津鎮雄が弾雨の中抜刀して先頭に立ち兵を励まし戦い、また中原から北山に転戦していた厚東武直少佐の第四大隊が反転して背後を突き、佐賀軍は総崩れとなり敗走した。しかし、本隊となった第十大隊第二中隊は中隊長阿部正通大尉が戦死し、代わって指揮を取った児玉源太郎大尉も重傷を負うなど被害が大きく、中原に到着した第十一大隊は一個中隊を割いて増援として差し出した。そのころ、朝日山の陥落を聞いて神埼まで出ていた江藤は寒津でも破れたことを聞くと馬を田手(現:吉野ヶ里町田手)まで走らせて陣頭指揮を執った。江藤は田手川に防御陣を敷き、一部の精鋭を持って背後を突こうとしたが、田手川下流を渡河した青山朗大尉率いる第十大隊第四中隊に逆に背後から攻撃を受け敗退した。さらに官軍が追撃したため、佐賀軍は神埼(現:神埼市)を焼き払い境原(現:神埼市千代田町境原)まで退却した。この敗退で勝機を失ったと見た江藤は征韓党を解散し、鹿児島県へ逃れて下野中の西郷隆盛に助力を求めるため戦場を離脱した。なお、江藤は憂国党には無断で佐賀を離れており、この敵前逃亡ともいえる態度に副島義高ら憂国党の面々は激怒している。 三瀬方面三瀬峠では佐賀軍一の用兵家とされる朝倉尚武(元陸軍少佐)が三個小隊を持って布陣していた。博多には広島鎮台などからの援軍が向かっていたものの当初は小笠原義従の一中隊しか残っておらず、守備する山田顕義少将は間道沿いからの攻撃を考慮して斥候を出し、飯場村に佐賀軍を発見したため、22日に一個分隊を進めたが佐賀軍は既に退却していた。23日には中隊全軍で三瀬峠に出撃、24日は福岡士族による貫族隊六個小隊が飯場村に出撃したが反撃を受け、小隊長幾島徳(安川敬一郎男爵の兄)が戦死するなどし金武まで後退した。しかし、26日には小笠原隊が背振口で佐賀軍を破り、翌27日は三瀬も取って佐賀軍を四散させた。しかし、地形が険阻な上、思わぬ苦戦を強いられた政府軍は博多に着いた井田譲少将、田中春風中佐、高島信茂少佐、古川氏潔少佐らが率いる広島鎮台第十五大隊の三個中隊を28日三瀬に進めた。この広島鎮台部隊は戦闘を行うことは無かったが、朝倉は正規軍四個中隊と現地召集の士族兵六個小隊を三瀬方面にひきつけることに成功した。また、3月1日に福岡に着いた谷重喜大佐の率いる大坂鎮台第十八大隊と第七砲隊一個小隊も三瀬方面に向かおうとしたが、既に佐賀軍はいないと判断した井田少将は谷大佐に援軍は不要であり本道から進むよう指示をしている。 境原の戦い23日以降官軍も休息をとっており、戦闘は散発的であったが、27日には総攻撃を開始し、第十大隊および第三砲隊が本隊として姉村に、第四大隊を右翼として城原から川久保に、第十一大隊と第十九大隊一個小隊を左翼として蓮池にそれぞれ進軍した。佐賀軍が神埼以南の諸橋梁を破壊していたため、架橋しながら戦う第十大隊は苦戦したが、砲隊の榴散弾が佐賀軍の保塁に命中したのをきっかけに猛進し、また第十一大隊が後方から攻撃したため挟撃の形となり、佐賀軍を敗走させて境原を奪取した。またこの日の夜には佐賀軍は一千人規模の夜襲を敢行したが、蓮池を占領しに向かった第十一大隊が戻り、側面を突いたことで佐賀軍は壊走した。結果的に戦闘は一昼夜行われ、佐賀征討記ではこの日の戦闘を今役中第一の激戦と記している。 江藤らは2月27日には鹿児島に入ったが、西郷に決起の意志はなかったため、今度は土佐へ向かい片岡健吉と林有造に挙兵を訴えた。ところが、既にここにも手配書が廻っており、3月29日高知県東洋町甲浦で捕縛される。捕吏長の山本守時は江藤に脱走を勧めたが、江藤は裁判で闘う決意を固めた後であり、これに応じなかったという。 2月28日、政府軍が佐賀城下に迫ると、このころ東京から戻っていた木原隆忠(島義勇の従弟)と副島義高を使者に降伏と謝罪を申し出たが、官軍は内容が無礼として受理せず、木原を拘留した。島義勇は佐賀で討ち死にするつもりであったが、実弟の副島義高らが無理矢理脱出させた。島は、島津久光に決起を訴えるべく鹿児島へ向かったが、3月7日に捕縛された。 戦闘終了後江藤は東京での裁判を望んだが、大久保は急遽設置した臨時裁判所において、権大判事河野敏鎌に審議を行わせた。わずか2日間の審議で11名が4月13日の判決当日に斬首となり、江藤と島は梟首にされた。江藤らの裁判は当初から刑が決まった暗黒裁判で、答弁や上訴の機会も十分に与えられなかった。明治政府の司法制度を打ち立てた江藤当人が、昔の部下である河野にこのような裁判の進行をされたことが非常に無念に思ったとの伝がある。その後もしばらくは佐賀では士族らを中心に不穏な動きが続き、1877年(明治10年)の西南戦争などに合流する士族もあったが、佐賀で反乱が起こることはなかった。なお、反乱後しばらく庶民の間で、江藤の霊を信仰すると眼病が癒り、訴訟ごとがスムーズに決着するとの風聞が流れた。 処刑された江藤・島は明治維新に大きな功があったため、当時から「戊辰戦争で政府軍に反抗した榎本武揚が後に特赦で要職に就いた例と比較して刑が重すぎる」という意見があった。イギリス公使ハリー・パークスは1874年4月25日付の英外務大臣宛の公文書に「江藤・島は死刑に加えさらし首にされた。この判決は大きな不満を呼んでいる」「新政府が分裂し、人々は個人的感情が(江藤処刑に)復讐の性格を与えたと考えているようだ」「佐賀の乱鎮圧で政府への信頼が回復したとは言えない」と記している。[15] 大久保による謀殺説については平沼騏一郎が回顧録において真偽は知らぬがこう聴いていると前置きした上で「佐賀出身の現職参議大木喬任が江藤の助命に動き、岩倉具視もこれに協力して明治天皇の裁可で特赦と定まった。岩倉が手紙を書いて使者が佐賀に発ったが、大久保の留守を預かっていた伊藤博文が使者が着く前に殺してしまえと大久保に伝えた。使者は死刑執行より早く着いたが大久保は翌日会うと言って会わずに死刑を執行した。翌日使者に会った大久保は江藤の助命の手紙であればなぜ昨夜出さなかったのかと使者を叱責したため、その使者は宿に帰って腹を切った。真偽は兎に角、使者が行ったこと、口供完結前に殺したことは実際である」と残している。この説については伊藤痴遊が自身の著書で触れているが、園田日吉(佐賀郷土雑誌「佐賀史談」主宰)は著書の『江藤新平伝』で「小説的、講談的なフィクションだろう」と看做している。 1919年(大正8年)、特赦が行われて江藤や島も赦免され、叙任されるとともに、地元有志によって佐賀城近くの水ヶ江に佐賀の乱の戦没者の慰霊碑が建てられた。 経過1873年(明治6年)
1874年(明治7年)
1919年(大正8年) 1920年(大正9年)
脚注注釈
出典
参考文献
関連項目 |