冨田康祐
冨田 康祐(とみた こうすけ、1988年4月24日 - )は、愛知県西春日井郡西春町(現:北名古屋市)出身の元プロ野球選手(投手)。右投右打。 経歴プロ入り前野球に興味を持つきっかけとなったのは、父親が「男の子だから」と買い与えたおもちゃのバットとグローブだったという[1]。小学生時代は、地元のスポーツ少年団(白木ウイングス)に所属するとともに、投手兼捕手で4番打者を任されていた。小学校の卒業文集には、「智弁和歌山に進学し、2年でサードのレギュラーを獲得し甲子園に出場する」と書いていた[1]。 中学生時代は、ボーイズリーグの稲沢中央ボーイズ(愛知県稲沢市)に所属[2]すると同時に、学校の野球部にも所属。毎日のランニングと素振りを欠かさず「体力づくり」に専念した[1]。稲沢中央ボーイズでもエースとして活躍した。 中学卒業後、PL学園高へ進学。地元を離れて名門校へ「野球留学」することについて、周囲からは反対されて本人もかなり悩んだ。しかし中学校の恩師の後押しもあり進学を決めた[1]。 PL学園高時代は、1年時の秋からベンチ入り。3年時は、前田健太の控え投手兼外野手として第78回選抜高等学校野球大会に出場。8番・中堅手として全試合にスタメン出場。準決勝の清峰高戦では、3番手として登板し1回を無失点に抑えたが、チームは敗退しベスト4に終わる。夏は、大阪大会準々決勝で東大阪大柏原高に敗れ、選手権大会出場は3年間で果たせなかった。 高校卒業後は、MLB挑戦を検討していた[3]が、最終的に東都大学野球連盟に加盟する青山学院大学に進学した。1年時の春からリーグ戦に出場を果たすも、以後は右肘の故障もあり、1部通算7試合の登板で1勝1敗、4年春・2部でも1試合のみに終わった。4年時の2010年秋にプロ志望届を提出したが、同年のNPBドラフト会議では、どの球団からも指名されなかった。指名漏れ後は大学を中退している。 独立リーグ・香川時代2011年1月27日、四国アイランドリーグplusの香川オリーブガイナーズに球団独自トライアウトを経て入団[4]。同年は、抑えとしてリーグ戦64試合中48試合に登板[5]。3勝3敗9セーブ、防御率はリーグ2位の1.39を記録し[6]、球団の後期優勝に貢献。リーグの後期MVPに選ばれた[7]。当時、ホームゲームでクローザーとして登板する際にはスタジアムDJ(藤沢翼)から「イッツ トミ タイム!」という登場コールを受けていた[8]。 2011年のNPB育成ドラフト会議で、横浜ベイスターズから1巡目で指名。育成選手として入団した。背番号は111。 横浜時代2012年には、イースタン・リーグ公式戦10試合に登板。0勝1敗、防御率6.00という成績を残した。チームメイトであったランディ・ルイーズからの誘いをきっかけに、シーズン終了後の11月30日から12月28日まで、プエルトリコのウィンターリーグに参加した[9]。 2013年には、7月29日付で支配下選手契約へ移行するとともに、背番号を68に変更。8月6日の対読売ジャイアンツ戦(郡山総合運動場開成山野球場)に、救援で一軍デビューを果たした。その一方で、イースタン・リーグ公式戦では、19試合の登板で1勝0敗6セーブ、防御率1.77を記録した。 2014年には、イースタン・リーグ公式戦20試合に登板。0勝2敗4セーブ、防御率3.27という成績を残した。しかし、一軍公式戦への登板機会はなく、10月3日に球団から戦力外通告を受けた[10]。12月2日付で、NPBから自由契約選手として公示[11]。 レンジャーズ傘下時代2014年11月には、NPBの第1回12球団合同トライアウトに参加[3]。シートバッティング形式で対戦した4人の打者を、全員無安打に抑えた。トライアウトの直後には、MLBのテキサス・レンジャーズからマイナー契約のオファーを受けていることが報じられた[3]。 2015年1月14日にマイナー契約を結ぶ[12]。ショートシーズンA級スポケーン・インディアンス(Spokane Indians、ノースウェストリーグ)所属の投手として臨んだリーグ戦[13]では、オール中継ぎで17試合へ登板すると、勝敗は付かなかったものの2セーブ、防御率4.71という成績を残した。しかし、2016年1月13日に、球団から契約を解除された[14]。その後は12月から1月にオーストラリアのリーグ(ABL)に短期参加ののち、前年に続いて古巣である香川の自主トレに参加[15]。2月下旬に渡米して複数のチームでテストを受ける予定と述べていた[15]。 レンジャーズ傘下退団後2016年4月から、メキシカンリーグの下部リーグであるLiga Norte de MexicoのRojos De Caborcaに所属していた[16]。アメリカの代理人とメールでのやりとりを経て開幕1週間前に契約が決まったもので、冨田本人と代理人の認識は下部リーグではないメキシカンリーグへの所属だったが、通訳を挟んでの交渉の行き違いがあったためか、実際に現地に行った際に下部リーグであったことを知ったという。開幕投手を任され、活躍を続けていたものの、給料未払い問題が発生し、そのタイミングで台湾プロ野球のオファーもあったことから在籍1か月程度で退団を決意した[17]。退団後、台湾に移って[18]Lamigoモンキーズと中信兄弟の入団テストを受験したが、いずれも入団には至らなかった。 2016年7月22日、約5年ぶりとなる香川オリーブガイナーズへの復帰が発表された[19]。香川では主にリリーフとして後期34試合中29試合に登板、監督の西田真二(PL学園の先輩)やコーチの伊藤秀範は、冨田が加わったことでリリーフ陣が強化され、後期優勝を争う上で力になったと評した[20][21]。後の報道では台湾で引退を決意したものの、西田から「おまえの経験を若手に還元してくれ」と声をかけられて香川に復帰したという[18]。11月12日の12球団合同トライアウトに参加し、1安打1四球(1人はゴロに打ち取ったが失策出塁)という内容だった[22]。11月30日、香川を退団することが発表された[23]。 現役引退後香川退団後は実家の工場管理会社を継ぐとともに、名古屋にある野球ベルトの開発会社にシニアマネージャーとして加わっている[24]。2019年の報道では、実家の会社に勤務しながら、野球指導者への興味も持ち続けていることを明かしている[18]。 2019年11月9日、マスターズ甲子園2019にPL学園OBとして出場、PL学園-利根商戦で先発した[25]。1失点ながら大会史上最速144km/hを記録し、MIP賞を贈られた[25]。 選手としての特徴・人物スリークォーターから最速152km/hのストレートとツーシームに加え、スライダー・フォークなどを投げる[26]。 詳細情報年度別投手成績
記録
独立リーグでの投手成績
背番号
脚注
関連項目外部リンク
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