制服 (ナチス突撃隊)本稿では国家社会主義ドイツ労働者党(以下、ナチ党)の組織である突撃隊(略:SA)の制服について記述する。 概要突撃隊(SA)の制服は、ナチ党発足後まもない1921年からナチ政権崩壊の1945年まで使用されていた。党の準軍事的組織であるSAの制服は、軍服を模しており、階級章など徽章を用い、褐色を基調としていた。 初期の制服突撃隊の代名詞とも言える褐色のシャツ型制服は、1920年頃から徐々にナチ党内に登場していた。当時、ナチ党指導者アドルフ・ヒトラーは、イタリアファシスト党の準軍組織である黒シャツ隊に倣い、党の警護部隊を創設した。1920年代の警護部隊は通常、党の会合や集会で制服を着用しており、これらの中で最も一般的なものは第一次世界大戦時の軍服であった。また、ドイツ義勇軍の制服なども用いられた。当時の隊員の制服はハーケンクロイツの腕章を除いて、服装はバラバラであった。 1921年、ヒトラーは警護部隊を「スポーツ隊」として再編し、後の突撃隊を結成した。この頃も、隊員のハーケンクロイツの腕章を除いて、統一された制服や記章は存在しなかったが、突撃隊において最初の階級制度が生まれたのはこの時点とされ、以下の4等級に分けられた。
褐色シャツ型の制服ヒトラーの投獄後、ナチ党は禁止され、突撃隊の残党はゲルハルト・ロスバッハなどの他組織の義勇軍指導者達によって匿われ、偽装組織としてフロントバンが結成された。 1921年以来、ロスバッハはオーストリア軍の植民地軍用の熱帯地用シャツを購入しており、以来、自身の義勇軍の制服として用いていた[1]。1924年頃には、余剰となったこの褐色シャツを他の組織へ分配しており、その後、突撃隊にも渡り制服として採用された[2]。 1925年、ヒトラーが刑務所から釈放された後、ナチ党は再結党され、同時に突撃隊も再建された。新設された突撃隊は、初めて正式な統一された組織の規定を受け取り、階級章の使用も採用された。 褐色シャツと乗馬ズボンの制服に加えて、隊員はケピ帽と腕章、褐色のショルダーベルトと腰ベルトとブーツを用いた。腰ベルトは下級隊員はハーケンクロイツを掴む鷲があしらわれたバックルを用い、指導者はオープン・フレーム型のバックル付きベルトを用いていた。当初、突撃隊は1923年以前の階級称号を用いていたが、1926年に隊員が増加したため、新たに連隊規模の編成と階級が追加された。
勤務服ナチ党の権力掌握後、突撃隊幕僚長エルンスト・レームは突撃隊を正規の軍隊として見せるために、制服の改定にあたり、勤務服(Dienstrock)が新たに導入された。 この制服も褐色を基調としていたが、シャツ型とは異なり、スーツ型の制服として裁断されていた。勤務服の裁断は党の勤務服と同様で、プリーツつきの胸ポケットがつき、腰ポケットは貼り付け型でプリーツが存在しなかった。配色については、党員用の勤務服とは異なり、褐色の色合いが強調されており、暗い赤茶色に近かったが、党員用勤務服と同様の配色も存在した。その他、外出用の勤務服が存在しており、こちらは腰ポケットが切り込み型となっており、親衛隊の勤務服に似た裁断となっていた。 一般的に勤務服の下着には、褐色のシャツ(褐色シャツ型の制服とは異なる)とネクタイを用い、礼装や外出時には白色のシャツを用いることがあった。外出時および勤務時には、それまでと同様ショルダーベルトと腰ベルトを用いた。 また、突撃隊水上部隊(SA-Marine)などの組織では、海軍の軍服を模した勤務服を用いており、独自の航海記章が存在した。 第二次世界大戦の勃発後、新たにウール製の勤務服が用いられた。この勤務服はそれまでの勤務服と併用して用いられ、一般的に外出時、或いは戦時の防災時に用いられた。材質は物資の不足などもあって、陸軍の一般兵用の野戦服と変わりなかった。後にこの勤務服は、突撃隊防衛隊(SA-Wehrmannschaft)の勤務服として定着している。 また、高官などはウールと綿を混紡した上質のものをそれまでの勤務服と同様、独自に仕立てており、見た目も一般のものとは異なり裁断が整っていた。 裁断は外出用と同様、腰ポケットが切り込み型となっており、SA防衛隊の野戦服では襟元が陸軍の野戦服と同様、詰め襟となっており第一ボタンがついた。 なお、勤務服の導入後もシャツ型の制服は用いられ続けた。
帽子初期の突撃隊では、軍の山岳部隊用の略帽(山岳帽、Mütze)を用いていたが、後にケピ帽を用いるようになった。また、第二次世界大戦の前後より新たに山岳型の制帽が導入された。ケピ帽には鷲型の帽章がつき所属管区ごとに配色され、階級ごとに装飾が施されていた。 その他突撃隊では他の組織同様、外套やスポーツ着が存在し、これらも褐色を基調としていた。
階級制度および徽章1933年、ヒトラーがドイツ首相に就任すると、レームは突撃隊幕僚長の肩書を実際の階級にした。 レームの新しい階級(Stabschefとして知られる)の記章は、ボリビアで軍事顧問をしていたレームの軍事経験から、ボリビアの将軍を模してデザインされた花輪付きの星章であった。 襟章各SA連隊は、連隊指導者(Standartenführer)と呼ばれる大佐に相当する上級指導者によって指揮された。襟章は兵と士官とを区別するために連隊指導者以上の上級指導者は、襟章に柏葉を用いるようになった。連隊指導者は葉を1枚、上級指導者(Oberführer)以上は葉を2枚、集団指導者(Gruppenführer)は葉を3枚あしらっていた。 1927年、SA-Führerの階級は中隊指導者(Sturmführer)に改称され、上位に大隊指導者(Sturmbannführer)が発足し、連隊指導者(Standartenführer)の直属の大隊編成指揮官によって指導されるように制定された。1928年、隊員の増加により更なる階級の細分化が行われた。階級は、左の襟章に取り付ける星章(ピフ)とテープ(リッツェ)で区別され、同時に所属する管区の色が配色された。 1928年には、上級集団指導者(Obergruppenführer)の階級が導入された。この階級は、集団指導者と同様、襟章に3枚の葉の記章を用いており、この階級はSA- Standartenの師団規模の編成を指導者する上級指導者によって保持された。また、この時点で突撃隊は、Standartenführer以下の隊員の襟章は右側に大隊と連隊の所属番号を記入するようになった。襟章の数字は中隊はアラビア数字大隊はローマ数字で記された。また、本部付きの隊員などは所属番号側の襟章が無地となっていた。 (各階級および各管区の識別一覧は突撃隊#突撃隊の組織体制の項を参照) (襟章の表記の一例)
SA上級分隊指導者の襟章(1938年)
肩章1933年以後、突撃隊では肩章が導入された。この肩章は親衛隊と同様の形状であり、配色は各管区ごとの配色をとっていた。肩章は兵・下士官、尉官、佐官、将官と4等分され、右肩のみに着用した。1939年頃より、肩章の形状が陸軍型の肩章と類似したものに変更され、両肩に肩章が取り付けられるようになった。
SA兵卒の肩章(1938年)
袖章突撃隊では党での活動歴を示すいくつかの袖章が採用されていた。 1934年2月に導入された突撃隊古参闘士名誉章は、褐色に配色された逆三角の綿生地の台布にアルミ線を織り込んだ金色の組紐を縫い付けたもので、約1cmの間隔で2本の赤い細紐が配されていた[3][4]。ナチ党の権力掌握の1933年1月30日以前にナチ党に所属していた党員番号30万番代未満の全SA隊員へ授与され[5]、階級は無関係だったので、兵卒も将校も同様に佩用した。 しかし、早くも1934年9月にはテープ型の帯章に切り替えられ、入隊年次により複数の異なる幅の帯章を制服上衣の両袖口に佩用するようになった[4]。 他には、特定の組織や部隊名をあしらったカフタイトルが存在しており、所属する各隊員がこれを用いていた。
専門職章突撃隊では軍と同様、左袖の前腕部分に専門職章がついた。これらは主にルーン文字を記章としていた。なお、SA指導者学校卒業者の袖章は、左袖のハーケンクロイツの腕章より上腕部に取り付けた。
脚注
参考文献
関連項目外部リンク
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