加藤 安雄基本情報 |
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国籍 |
日本 |
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出身地 |
岡山県総社市 |
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生年月日 |
(1950-04-06) 1950年4月6日(74歳) |
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身長 体重 |
172 cm 86 kg |
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選手情報 |
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投球・打席 |
右投右打 |
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ポジション |
捕手 |
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プロ入り |
1975年 ドラフト4位 |
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初出場 |
1976年10月2日 |
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最終出場 |
1976年10月2日 |
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経歴(括弧内はプロチーム在籍年度) |
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選手歴 |
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監督・コーチ歴 |
- 阪急ブレーブス (1981 - 1985)
- 中日ドラゴンズ (1987 - 1991)
- 阪神タイガース (1992 - 1994)
- 中日ドラゴンズ (1995 - 1998, 2000 - 2003)
- 阪神タイガース (2004 - 2009)
- ショウワコーポレーション
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加藤 安雄(かとう やすお、1950年4月6日 - )は、岡山県総社市[1]出身の元プロ野球選手(捕手)・コーチ。
経歴
倉敷商では3年次の1968年、捕手として夏の甲子園県予選準決勝に進出するが、倉敷工に敗退。高校卒業後の1969年に明治大学へ進学し、東京六大学リーグでは1年次の同年春季で優勝を経験するが、その後は法大・慶大の全盛期となり優勝には届かなかった[2]。本来は捕手であるが定評のある打力を活かし、3年次の1971年からは4番打者、一塁手としても活躍。大学同期には前保洋がいた。
大学卒業後の1973年には熊谷組に入社し、同年の産業対抗では久保田美郎とバッテリーを組み決勝に進む。エアロマスターの細淵守男に完封を喫する[3]が、同大会の優秀選手賞を獲得。また同年から1975年の3年連続で都市対抗に出場し、1974年に来日したキューバと社会人選抜の交流試合にも出場。1975年の都市対抗ではチームメイトの久保田と共に東京ガスの補強選手として出場し、松沼博久ともバッテリーを組む。2回戦で電電北海道の有沢賢持(日産サニー札幌から補強)から決勝2点本塁打を放つが、準々決勝で大丸に敗退[4]。
強打の捕手と期待され、同年のドラフト4位で阪急ブレーブスに入団[1]したが、中沢伸二・河村健一郎の壁を破れず出場機会には恵まれなかった。1981年からはコーチ補佐兼任となり、1982年に現役を引退[1]。
引退後は阪急で一軍バッテリーコーチ補佐(1983年 - 1984年)→一軍バッテリーコーチ(1985年)を務め、1984年のリーグ優勝に貢献。退団後の1986年にはアイク生原を頼りに渡米して、ドジャース1Aにコーチ留学[1]し、用具係の手伝い[5]なども経験。帰国後は高校、大学の先輩である星野仙一監督の下を中心に中日(1987年 - 1991年・1996年 - 1997年・2000年一軍バッテリーコーチ, 1995年・1998年・2001年 - 2002年二軍バッテリーコーチ, 2003年二軍バッテリー総合コーチ, 1999年フロント)、阪神(1992年二軍ブルペンコーチ, 1993年一軍ブルペンコーチ, 1994年一軍バッテリーコーチ, 2004年・2007年二軍バッテリーコーチ, 2005年三軍育成・リハビリコーチ, 2006年二軍育成担当コーチ, 2008年 - 2009年二軍育成コーチ)でコーチを歴任[1]。中日コーチ時代は中村武志を指導し、甲子園の阪神戦で小松辰雄のボールを3球続けて逸らした時には、その晩に即、当時の宿舎であった竹園旅館のコンクリートの駐車場でマンツーマンのワンバウンド捕球練習をさせた[6]。
阪神退団後は故郷・岡山のショウワコーポレーション監督(2010年 - 2021年10月)を務め、後任には亀澤恭平が就任した。
詳細情報
年度別打撃成績
記録
背番号
- 22 (1976年 - 1977年)
- 49 (1978年 - 1979年)
- 73 (1980年 - 1985年)
- 72 (1987年 - 1991年、1996年 - 1998年、2000年 - 2003年)
- 84 (1992年 - 1994年)
- 89 (1995年、2004年)
- 97 (2005年 - 2009年)
脚注
関連項目
外部リンク