原田 鶴吉(はらだ つるきち、1892年(明治25年)4月1日 - 1964年(昭和39年)4月6日)は、大日本帝国陸軍軍人。最終階級は陸軍少将。功三級。
経歴
1892年(明治25年)に佐賀県で生まれた。陸軍士官学校第25期卒業。1937年(昭和12年)3月に独立山砲兵第2連隊長(第10軍のち第11軍)に就任し、日中戦争に出動。南京攻略戦などで活躍した。1940年(昭和15年)3月9日に陸軍砲兵大佐に進級し、9月5日に陸軍野戦砲兵学校下士官候補者隊長に就任し、1941年(昭和16年)11月に陸軍野戦砲兵学校幹部候補生隊長に転じた。
1943年(昭和18年)3月に第23軍兵器部長(支那派遣軍)に就任し、中国戦線に復帰。1944年(昭和19年)8月に陸軍少将に進級し、1945年(昭和20年)5月1日に砲兵監部附となった[4]。同年5月23日に第8砲兵司令官(第1総軍・第12方面軍・第52軍)に就任し、本土決戦に備える中で終戦を迎えた。
1947年(昭和22年)11月28日、公職追放仮指定を受けた[5]。
脚注
参考文献