厭離穢土厭離穢土 (えんりえど、おんりえど)とは、浄土教の用語。源信の仏教書『往生要集』冒頭の章名に由来する。「欣求浄土」と対句で、厭離穢土欣求浄土として使われることが多い[1][2]。 概要語源は、寛和元年(985年)に出された源信の仏教書『往生要集』冒頭の章名に由来する。源信は、『往生要集』大文第一を厭離穢土、第二を欣求浄土とし、この思想を浄土信仰の基本とした[3]。 江戸期までは「えんり - 」と読まれていたが、大正期~昭和初期から辞書(『大字典』など)によっては「おんり - 」を採用するようになった[4]。「おんり - 」を誤りとする説もある[4]。 「厭離穢土 欣求浄土」の意味は、「現実の世の中は、穢れた世界であるからこの世界を厭い離れ、次生において清浄な仏の国土に生まれることを願い求めること」とされる[3]。阿弥陀如来の極楽世界は清浄な国土であるから、そこへの往生を切望するという思いが込められている。
厭離穢土欣求浄土と徳川家康徳川家康は戦国時代、様々なものを馬印に用いた。その中の一つに「厭離穢土欣求浄土」の纏(まとい)があった。寛文年間(1661年〜1673年)に編まれた『難波戦記』にはこう記されている[1]。 永禄3年(1560年)5月19日昼頃、今川義元は桶狭間の戦いで戦死。織田方の武将の水野信元は、甥の松平元康(徳川家康)のもとへ、浅井道忠を使者として遣わした。同日夕方、道忠は、元康が守っていた大高城に到着し、今川義元戦死の報を伝えた。織田勢が来襲する前に退却するようとの勧めに対し、元康はいったん物見を出して桶狭間敗戦を確認した。同日夜半に退城。岡崎城内には今川の残兵がいたため、これを避けて翌20日、菩提寺の大樹寺に入った。ここまでは、各文献に記されているものであるが[5][6]、「厭離穢土欣求浄土」の纏が家康の馬印となった由来については、主に以下の2説がある。
なお、山岡荘八の小説『徳川家康』は「この寺を建立した親忠もまた、つねにこの文字(注・厭離穢土欣求浄土)を陣頭にかざしてゆくのがつねであったという」[9]と記述しており、どちらの説にも与していない[注 2]。 小説が完結する5年ほど前、山岡は『週刊現代』1962年10月14日号から1963年8月1日号にかけて、『随想徳川家康』と題するエッセイを連載した。その中で(1)の説を詳細に語った[11]。そして山岡の小説を原作とする1983年放映のNHK大河ドラマ『徳川家康』がこの説を採用したことから、厭離穢土欣求浄土は「自害を試みようとした家康に向かって登誉上人が発した言葉」として信じられるようになった[12][13]。 脚注注釈出典
参考文献
関連項目 |