取石村
現在の高石市東部、取石・西取石・加茂(一部)・綾園(一部)にあたる[1]。 歴史「取石」という地名は、取石池の名が『万葉集』に見え、それにちなむ[2]。また『続日本紀』巻九によると、聖武天皇は即位した724年(神亀元年)10月紀伊国行幸の帰途、和泉国取石頓宮に立ち寄っている[3]。鎌倉時代の1282年(弘安5年)には、西大寺の叡尊が立ち寄っている[4]。 この地域の氏神である等乃伎神社が鎮座する富木村については、『古事記』下巻・仁徳天皇148に「兔寸(とのき)」という地名が見え、朝日が当たると影が淡路島に届き、夕日が当たると影が高安山を越えるという巨木があったと記されている[5]。また『続日本紀』巻十八によると、752年(天平勝宝4年)5月に殿来(トノキノ)連竹田売という人物が、朝廷から外従五位下に叙位されている[6]。鎌倉時代末期の1330年(元徳2年)11月初旬の六波羅探題による和泉国悪党討伐のさいには、のちに楠木正成配下になる八田助房がせまる討伐軍に対し蜂田郷の自邸を焼き同盟していた殿木(とのき)兵衛入道の邸に身を寄せ籠城して抵抗したとある[7]。 江戸時代は、幕府領であった。幕末は、大半が一橋徳川家領、一部が岸和田藩預地(日常の統治は岸和田藩、納税先は幕府)。旧高旧領取調帳によればその内訳は、次の通り[8]。
1782年(天明2年)7月、一橋徳川家領の村々が重税に反対し一揆をおこし千原村(現泉大津市千原)にあった掛屋を襲撃した千原騒動があったが、富木村から土井忠兵衛、新家村から勘七、土生村から了意が参加し、騒動後の8月に捕縛され全員獄中で亡くなっている。 明治以降の沿革
建造物・史跡和泉黄金塚古墳(和泉市)…当地域の南東に間近に位置する国史跡。邪馬台国のころの中国王朝、魏の景初3年の年号入りの銅鏡が出土している。 旧富木村の史跡
旧大園村の史跡 旧市場村の史跡
文化秋のだんじり祭 江戸時代から行われている。 富木村のだんじりは、廃絶されることなく現在まで続いている。 他の村々のだんじりは、廃絶していたが、1982年の高石まつりパレードを機に復活した。 この経緯から、富木村のだんじりは北隣の鳳だんじり祭りに参加し主に堺市西区を曳行。富木村以外のだんじりは、高石連合の高石だんじり祭に参加するといういびつなことになっている。 交通鉄道路線1940年(昭和15年)阪和電気鉄道の富木停留場、開設。同年、南海電鉄に移され、南海山手線の駅となる。1944年(昭和19年)国有化された。 道路
脚注
関連項目 |