吉植 庄一郎(よしうえ しょういちろう、1865年10月27日(慶応元年9月8日[1]) - 1943年(昭和18年)3月10日)は、日本の衆議院議員(立憲政友会→政友本党→立憲政友会)、ジャーナリスト。子は歌人・衆議院議員の吉植庄亮。義弟に弘前高等学校校長を務めた鈴木信太郎がいる[2]。
経歴
下総国印旛郡、のちの千葉県印旛郡埜原村[3](本埜村を経て現印西市)出身。北海道に渡り開墾に従事したが、北海道時事新聞社を興し、社長に就任した。やがて他の新聞との合併で北海タイムス新聞社が成立すると、理事を務めた。
1904年(明治37年)、第9回衆議院議員総選挙に出馬し当選。以後、当選回数は9回[4][注 1]を数えた。1917年(大正6年)4月、第13回総選挙で当選したが、衆議院議員選挙訴訟の結果、安房郡での選挙が無効となり、同年12月8日、千葉県知事により鵜澤總明・木村政次郎・関和知・津田毅一・鵜沢宇八・柏原文太郎・磯野敬・加瀬禧逸・土屋清三郎と共に当選証書が取消され議員を退職し[5]、同月に実施された再選挙で当選した[4][6]。
議員就任後、政友会系新聞の中央新聞や大阪新報の経営にあたり、原内閣で文部参事官、田中義一内閣で商工政務次官を務めた。
脚注
注釈
- ^ 第13回総選挙の当選無効後の再選挙当選を含めた回数。
出典
- ^ 衆議院『第四十九回帝国議会衆議院議員名簿』〈衆議院公報附録〉、1924年、11頁。
- ^ “毎日年鑑 昭和5年”. 大阪毎日新聞社. 2024年10月22日閲覧。
- ^ 『光芒の人 千葉県人物事典2』248頁。
- ^ a b 『議会制度百年史 - 衆議院議員名鑑』704頁。
- ^ 『官報』第1619号、大正6年12月24日。
- ^ 『官報』第1622号、大正6年12月27日。
参考文献