鳩山和夫
鳩山 和夫(はとやま かずお、1856年5月6日〈安政3年4月3日〉 - 1911年〈明治44年〉10月3日)は、日本の政治家、法律家。位階勲等学位は正四位勲三等法学博士。日本人第1号の法学博士取得者[1]。イェール大学Doctor of Civil Law。 外務次官、衆議院議長を歴任し、教育でも専修学校(専修大学)の設立に大きく貢献をした功労者である。また、東京専門学校(早稲田大学)校長なども務めた。 長男は鳩山一郎、次男は鳩山秀夫。鳩山威一郎は孫。鳩山由紀夫・鳩山邦夫は曾孫。鳩山太郎・鳩山二郎・鳩山玲人・鳩山紀一郎は玄孫。 生涯1856年5月6日、武蔵国江戸虎門(現・東京都港区虎ノ門)に美作勝山藩の藩士・鳩山十右衛門博房、喜久子[2]の四男として生まれる[注釈 1][注釈 2]。 父・博房は勝山藩に仕えた家臣で、小川家に生まれるが後に鳩山嘉平治の養子となり鳩山家を継ぐ。江戸虎ノ門の勝山藩邸で藩の外交を取り仕切る江戸詰留守居役だった。1862年、文久の改革により参勤交代が3年に1度でよくなると、各藩も経費のかかる江戸の屋敷を閉鎖することが多くなり、鳩山家も勝山の地に移り住むことになった。このため和夫は、6歳の時に勝山の地で生活を始めるが、約5年間生活したあと、住み慣れた江戸に戻った。博房は、1867年(慶応3年)の薩摩藩邸焼討実行犯である益満休之助を預かっていた勝山藩邸から、勝海舟の依頼により勝に引き渡している[3]。 1875年、開成学校(のち東京大学)を卒業する。第1回留学生に選ばれ、米国へ留学。コロンビア大学で法学士(Bachelor of Laws)を修得する。1880年、イェール大学大学院でM.L.及びD.C.L修得する。米国留学中に専修大学の前身である専修学校の設置構想に加わっており、専修学校創立者である相馬永胤・田尻稲次郎・目賀田種太郎・駒井重格らに準ずる存在であった。帰国後、代言人(弁護士)、東京代言人組合会長、東京帝国大学講師等を歴任した。 1881年11月、旧信州松本藩士である渡辺努(のちに多賀姓に改姓)の娘・多賀春子と結婚する。1882年2月、東京府会議員に当選する。1883年1月、長男・一郎誕生。1884年2月、次男・秀夫誕生。 1885年4月、外務省入省。外務省書記官、取締局長、東京帝国大学教授に就任。1890年7月東京専門学校(のち早稲田大学)校長に就任。秋頃、小石川区音羽町(現・文京区音羽)に居を移す。 1894年3月、第3回衆議院議員総選挙に東京府第9区より当選。1896年12月、衆議院議長に就任。1897年3月、衆議院本会議で二つの議案で可否同数となったため議長決裁権を行使(2案とも否決)。日本政治史で国会で2回議長決裁権を使ったのは鳩山だけである。1898年9月、外務次官に就任。1902年9月、東京専門学校が早稲田大学となり、早稲田大学校長。この間、立憲改進党、進歩党、憲政党、憲政本党に所属していたが、1908年1月に立憲政友会に入会した。 1895年11月より小石川区会議員[4]、1908年11月からは東京市会議員も務めた。当時の制度によって、衆議院議員は引き続き兼務している。1910年5月、東京弁護士会会長に就任。1911年10月3日午前7時30分頃、食道癌のため死去[5]。享年55。墓所は谷中霊園。 栄典・授章・授賞
鳩山地区生涯にわたって北海道開墾に影響力を発揮し、栗山町の「栗山共同農場」を擁する地区は鳩山川・鳩山池・鳩山神社(旧称・紅葉神社)まで現存する「鳩山地区」と呼ばれるに至った[10]。曽孫の鳩山由紀夫はこの縁を利用して出馬したため、北海道が選挙地盤であった。 家族・親族鳩山家
著書
脚注注釈出典
関連項目参考文献
外部リンク
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