吉植庄亮
吉植 庄亮(よしうえ しょうりょう、1884年4月3日 - 1958年12月7日)は、日本の歌人、政治家。 経歴1884年、千葉県印旛郡(現・印西市)の農家に、父庄一郎、母とくの長男として生まれる。当時、この地の農家は繰り返される印旛沼の氾濫に悩まされていた。1892年、父の庄一郎が埜原(やわら)村の村民47戸を率いて、妻とともに北海道石狩国雨竜郡に移住。開墾し、雨竜村和(やわら)(現・北竜町字和)を創立する。両親の北海道移住以来、庄亮は東京の祖父(庄之輔)、祖母のもとで育てられた。開成中学校、第一高等学校を経て東京帝国大学法科経済学科を1916年に卒業。1921年に父の経営する中央新聞に文芸部長として入社する。のちに政治部に転属となり政治記者を務めた。1924年に退社。[3] 歌人として開成中学校在学中に『明星』や『新声』といった文芸誌を知り、作歌を始める。『新声』で短歌の選者を務めていた金子薫園に師事。1903年、金子薫園の白菊会創設に参加し、土岐善麿、田波御白、平井晩村ら新進の歌人と知り合う。当時は愛剣と号していた。1906年に入学した第一高等学校時代には、谷崎潤一郎や和辻哲郎と交流を持った。1921年、初の短歌集『寂光』(序文:金子薫園)を上梓。この歌集が賞賛を集め、庄亮は歌壇に認められ、北原白秋や古泉千樫ら当時の第一線の歌人たちと交流を深めた。[4] 1922年に歌誌『橄欖』を鈴木康文、伊藤公平らとともに創刊、主宰者となる。1924年、北原白秋、前田夕暮、土岐善麿、古泉千樫、石原純、釈迢空、木下利玄らとともに歌誌『日光』を創刊(1927年終刊)。北原白秋とは特に交流が深く、1924年8月には鉄道省主催の樺太観光団にともに参加している。[5] 歌誌『橄欖』は1923年の夏から翌年の夏まで一年ほど休刊したが、その後も刊行を続けた。[6] 1940年に「大日本歌人協会」の解散勧告を太田水穂、斎藤瀏と連名で出し、以後は大政翼賛へとなだれ込んだ。 開墾者として東京帝国大学卒業後の数年間、祖母(1920年逝去)とともに印旛郡で過ごした[7]時期もあったが、基本的には東京で暮らしていた。1924年秋、30年ほど過ごした東京生活を終え、郷里の印旛郡に戻る。1925年から10年間で印旛沼周辺に60町歩(595,041m2)の土地を開墾した[8]。このころの生活を詠った歌は、第五歌集『開墾』(1941年)にまとめられている。当時としては画期的な大型トラクター導入による農業の機械化や有畜農業を進めた[7]。またこの間、開墾を進めることを目的として、印旛郡本埜村の村会議員に出馬し、当選している。[9] 政治家として1936年、衆議院選挙に千葉県第2区(印旛郡、香取郡、海上郡、匝瑳郡)から出馬し、当選して立憲政友会の衆議院議員となる。選挙委員として選挙戦を支えたのは庄亮に師事した歌人・鈴木康文や尾崎孝子であり、演説会で尾崎孝子が庄亮の開墾の短歌を朗詠するなど、歌人としての業績、開墾者としての業績を前面に出した選挙戦であった。[10] 戦後、農地改革により所有する農地の面積は大幅に縮小となり、1948年には公職追放となる[11]。1949年には農村を現地視察したカール・シャウプを案内し、シャウプ勧告に実情が反映されたという[12]。その後、印旛沼・手賀沼の土地改良区設立運動に携わった[7]。1951年に追放解除となる。 晩年1958年7月、庄亮は右手が不自由になっていたが、親戚の歌人・吉植亮(1917年生まれ[13])の協力を受け、第11歌集『霜ぶすま』を上梓する。庄亮の最大の協力者であった妻の梅子は前年に亡くなっており、そのことによる庄亮の憔悴と衰えは大きかったという。[14] 1958年12月7日に食道癌のため関東逓信病院で逝去[15]。没後、正五位勲三等瑞宝章が追贈された。歌誌『橄欖』は鈴木康文が代表を引き継いだ。1973年には、郷土を代表する歌人として千葉県文化会館に歌碑が建立された[16]。 著書歌集
随筆集
脚注
参考文献
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