和田洋一 (文学研究者)
和田 洋一(わだ よういち、1903年9月22日 - 1993年12月20日)は、ドイツ文学者。新聞学者(ジャーナリズム/マス・コミュニケーション研究者)。同志社大学名誉教授。 経歴
1903年、京都府京都市で同志社大学元学長・和田琳熊の子として生まれた。同年、日本基督教団室町教会で受洗。第三高等学校を経て、京都帝国大学文学部独文学科へ進んだ。1930年に卒業。
卒業後の同年、同志社大学予科講師に就いた。1931年、予科教授に昇格。1932年、内村鑑三の姪・内村秋子と結婚。1935年、中井正一、新村猛、久野収らと共に月刊誌『世界文化』を刊行。雑誌『世界文化』を通してファシズムに対抗する論陣を張り、人間の自由と尊厳を援護し続ける人物として知られるようになった。1938年、治安維持法違反の疑いで検挙され、同志社大学を辞した。 1940年より大阪時事新報に記者として勤務。1943年からはドイツ大使館に翻訳係として勤務。1944年、社団法人独逸文化研究所研究員。
1946年、『夕刊京都』理事、文化部長。しかし同1946年、同志社予科教授に復職[1]。1949年、同志社大学文学部教授となり、新聞学専攻を担当した。学界方面では、1951年、日本新聞学会(現・日本メディア学会)の設立に尽力し、同学会が設立されると理事に就いた。 1953年より同志社大学研究所長(現・人文科学研究所)、1956年より文学部長。1974年に同志社大学を退任し、名誉教授となった。1993年に死去。 役員・委員研究内容・業績専門はドイツ語、ドイツ文学で、新聞など社会に対して影響を与えるメディアやジャーナリズムについて研究を行った。主な著書に『戦時下抵抗の研究:キリスト者・自由主義者の場合』(1968-69年)、『新島襄』(1973年)がある。 戦後は日本新聞学会(現、日本マス・コミュニケーション学会)、としても活躍した。日本新聞学会では和田を名誉会員に選出し、『世界文化』等における彼の歴史上の功績を称えた。
家族・親族
著作
和田洋一に関連する資料外部リンク
脚注
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