喜多 誠一(きた せいいち、1886年〈明治19年〉12月20日 - 1947年〈昭和22年〉8月7日[1])は、日本の陸軍軍人。陸士19期・陸大31期。最終階級は陸軍大将、栄典は正三位[要出典]勲一等功四級。
経歴
滋賀県出身。喜多三郎の子として生まれる。滋賀二中(現・滋賀県立膳所高等学校)を経て、1907年(明治40年)5月、陸軍士官学校(19期)を卒業。同年12月、歩兵少尉に任官し歩兵第36連隊付となる。天津駐屯歩兵隊付などを経て、1919年(大正8年)11月、陸軍大学校(31期)を卒業した。
1920年(大正9年)2月、歩兵第68連隊中隊長となり、参謀本部付勤務、参謀本部員、参謀本部付(支那駐在)、歩兵第19連隊大隊長などを歴任。1925年(大正14年)5月、参謀本部員に就任し、陸軍省軍務局課員、支那駐在、欧州出張、参謀本部員、参謀本部付(南京駐在)などを経て、1931年(昭和6年)8月8日、歩兵大佐に進級し歩兵第37連隊長に就任。
1932年(昭和7年)2月、上海派遣軍情報参謀となり、参謀本部付(支那出張)、関東軍参謀(第2課長)、参謀本部支那課長などを歴任し、1936年(昭和11年)3月、陸軍少将に進級して支那公使館付武官となった。1937年(昭和12年)8月、天津特務機関長に就任。中国通として第二次上海事変発生時に、蔣介石総統と事件拡大回避の交渉をするも物別れとなる。その後、北支那方面軍特務部長を経て、1939年(昭和14年)3月、陸軍中将に進級し興亜院華北連絡部長官となる。
1940年(昭和15年)3月、第14師団長に親補され、第6軍司令官、第12軍司令官などを経て、1944年(昭和19年)9月、満州国敦化に司令部を置く第1方面軍司令官に就任。翌年3月、陸軍大将に親任され、終戦を迎えた。
戦後はシベリアに抑留され、1947年にハバロフスク近郊のホール野戦病院にて没。享年62。
栄典
- 外国勲章佩用允許
脚注
- ^ 『日本陸海軍総合事典』第2版、54頁では「6月7日」。
- ^ 『官報』第4438号・付録「辞令二」1941年10月23日。
- ^ 「有末精三外十七名外国勲章記章受領及佩用の件」 アジア歴史資料センター Ref.A10113505700
参考文献
- 秦郁彦編『日本陸海軍総合事典』第2版、東京大学出版会、2005年。
- 福川秀樹『日本陸軍将官辞典』芙蓉書房出版、2001年。
- 外山操編『陸海軍将官人事総覧 陸軍篇』芙蓉書房出版、1981年。