港区立郷土歴史館(旧国立公衆衛生院)
国立公衆衛生院 (こくりつこうしゅうえいせいいん、The Institute of Public Health)は、日本 の公衆衛生 の向上を目的として存在していた研究・教育機関。1938年 (昭和 13年)に設立されて2002年 (平成 14年)に改組・廃止された。現在の国立保健医療科学院 の前身の一つ。設置場所は現在の東京都 港区 白金台 。
2002年4月1日 付けで組織が改組され、国立感染症研究所 の一部などと共に国立保健医療科学院となり、多極分散型国土形成促進法 により埼玉県 和光市 に移転した。白金台の旧建物は文化財的価値から保存され、港区立郷土歴史館 として2018年 にオープンした。
機関の位置づけ
国立公衆衛生院は、日本の公衆衛生の改善向上を期するために、公衆衛生技術者の養成及び訓練並びに公衆衛生に関する調査研究機関として、厚生省 の所管で設立された[ 1] 。
国及び地方公共団体等における公衆衛生技術者を対象とした教育訓練課程があり[ 2] 、その中には、医師などの大学卒業者や大学院 修士 課程修了者を対象とした課程もあった。世界保健機関 (WHO) は国立公衆衛生院を「School of Public Health (公衆衛生大学院 )」として紹介していた[ 3] 。しかし、日本の高等教育 制度における大学院に該当する機関ではなかった。
年譜
1923年 (大正12年)9月1日 、米国ロックフェラー財団 から、関東大震災 後の災害地復興援助の一部として、公衆衛生専門家の育成・訓練機関の設立について、日本政府に非公式な連絡があった[ 4] 。
1930年 (昭和5年)、日本政府は公衆衛生院および学生の臨地訓練機関としての都市および農村保健館の設計図・公衆衛生院の計画案をロックフェラー財団へ送付した。この計画案が、財団で了承され、次いで建築設計の実施案の作製に着手することとなった。政府は東京帝国大学伝染病研究所 および同附属病院 と同じ敷地内に隣接して建設に着手した[ 4] 。
1934年 (昭和9年):内務省内に公衆衛生技術員養成機関建設委員会が設けられ、建設に関する事務を担う。全施設(公衆衛生院の建物・設備・器具・機械・図書・両保健館の建物など)に対する米国ロックフェラー財団の経済的寄与は総額350万ドル超であった[ 4] 。
1937年 (昭和12年)、公衆衛生院および都市・農村両保健館の建物・器具機器・図書等の準備が完了。建設委員会を通じ、公衆衛生院は日本政府に、都市保健館は東京都に、農村保健館は埼玉県に寄贈された[ 4] 。
1938年 (昭和 13年)3月29日 - 公衆衛生院官制公布により設立(厚生省 所管)
東京帝国大学名誉教授林春雄 が初代院長となった。発足時の教授は、野辺地慶三博士(初代疫学部長)、斎藤潔博士(初代小児衛生部長、創立15周年記念誌編集委員長、第三代公衆衛生院長)、石川知福博士(初代環境生理科長、昭和23年東京大学医学部初代公衆衛生教授)、川上理一博士(初代衛生統計学部部長)があたった[ 4] 。
1940年 (昭和15年)12月4日 - 栄養研究所 (厚生省 所管)と合併し厚生科学研究所 となる(勅令第840号)。
1941年 (昭和16年)4月1日 - 体育研究所 (文部省 所管)の一部を併合(勅令第278号)
1942年 (昭和17年)11月1日 - 厚生省研究所 (厚生省所管)へ統合(勅令第762号)
1946年 (昭和21年)5月1日 - 厚生省研究所を廃し、改めて公衆衛生院となる(勅令第249号)
1947年(昭和22年)5月1日 - 国立栄養研究所を分離(勅令第175号)
1949年 (昭和24年)6月1日 - 国立公衆衛生院に改称
1965年 (昭和40年)に世界保健機関 (WHO) は、国立公衆衛生院のDiploma in Public Healthを諸外国の公衆衛生学修士 (MPH)と同等のものと認め、『世界公衆衛生大学年鑑』に収録した[ 3] 。
2002年(平成14年)4月1日 - 国立保健医療科学院に改組
設立当初の主なスタッフ
国立公衆衛生院創立30周年記念誌[ 3] による。
初代院長 - 林春雄 (東京帝国大学名誉教授)
疫学部長 - 野辺地慶三
建設委員会幹事野辺地慶三博士(公衆衛生院発足時に伝染病研究所疫学研究室は、公衆衛生院疫学部として、新発足することとなった。初代疫学部長には、野辺地慶三博士が就任した。伝染病研究所疫学部研究室時代は、その性格上微生物関係の研究は、直接行っていなかったが、新設の疫学部は、この方面の研究も併せ行うこととなった)の献身的な努力に負う所が大であった[ 4] 。野辺地慶三博士は、東京帝国大学医科大学を卒業後、伝染病研究所に入り、コレラ菌 の血清学 的分類法を発見し、この業績は、現在でも適用されている[ 5] 。
小児衛生部 - 斎藤潔 (第三代院長)
環境生理科 - 石川知福 (東京大学医学部初代公衆衛生教授)
衛生統計学部長 - 川上理一
教育訓練課程
国立公衆衛生院には、1980年 の時点で次の教育訓練課程があった(昭和55年 厚生省訓令 第7号[ 2] )。
研究課程
公衆衛生学の分野について、自立して研究活動を行うに必要な高度の研究能力及びその基礎となる豊かな学識を養うことを目的とする。
専門課程
広い視野に立って、公衆衛生学に関する精深な学識及び技能を授け、公衆衛生の分野における専門性を要する職業等に必要な高度の能力を養うことを目的とする。
専攻課程
公衆衛生に関する総合的、かつ、高度の知識及び技能を授けることを目的とする。
環境コース、看護コース及び保健コースから成る。
特別課程
公衆衛生に関する生涯教育として、公衆衛生関係業務に従事している者に対し、業務に関する最新の知識及び技能等を授けることを目的とする。
建築物
国立公衆衛生院
情報 設計者
内田祥三 施工
大倉土木(現・大成建設 ) 構造形式
鉄骨鉄筋コンクリート構造、鉄筋コンクリート構造 建築面積
2,923.09 m² ※884.459坪
延床面積
15,090.75 m² ※4,564.748坪
階数
地下2階、地上7階、塔屋2階 高さ
塔屋約36.20メートル、5階約23.10メートル 着工
1935年(昭和10年)3月 竣工
1938年(昭和13年)10月 文化財
港区指定文化財(有形文化財[建造物]) 指定・登録等日
2019年(令和元年)9月27日[ 6] テンプレートを表示
沿革
建物外観(2010年)
建築家 内田祥三 により設計され、1938年(昭和13年)に竣工した。同じく内田祥三設計の東京大学医科学研究所 に隣接している。
1982年(昭和57年)に日本建築学会 によって、典型的な近代建築として選定され、保存に努めるよう要請された[ 7] 。
公衆衛生院の敷地・建築物は2007年6月に用途廃止となり閉鎖されたが、2009年3月に港区虎ノ門 三丁目の旧・港区立鞆絵 ( ともえ ) 小学校敷地と交換されて港区の所有となった[ 8] 。
港区は旧公衆衛生院の建物に対して耐震補強やバリアフリー 化などの改修工事を2016年10月から行い、港区立郷土歴史館 ・在宅緩和ケア 支援センター・子育て関連施設・区民協働スペース・防災関連施設などから成る公共複合施設「ゆかしの杜」として2018年2月に竣工した[ 9] 。
2019年9月27日には「旧公衆衛生院」として港区指定文化財(有形文化財[建造物])に指定された[ 6] [ 10] 。
構造
建築様式には内田建築の特徴であるゴシック (「内田ゴシック」)の特徴が取り入れられ、城壁のような高層の作りである。白金台の高台に位置し、建物の高さと併せ、広範囲から視認することができた。
中央ホールや院長室のある2・3階と、授業を行う教室や実験室がある4・5階、および、学生寮 があった6階と、大きく3種類の用途とデザインに分けられている点が特徴である[ 11] 。
340席を有する4階の講堂は階段状になっている[ 11] 。
見学
「ゆかしの杜」の外観や、中央ホール・旧院長室・旧講堂などの内部は無料で見学ができる。開館日などの詳細は港区立郷土歴史館 を参照のこと。
逸話
設計者・内田祥三 は麻布笄町 の自邸(戦後、ソ連 大使館として使われたあと消失[ 12] )から見えるこの建物を気に入っていた[ 11] 。
出身者
注
参考文献
関連項目