坪内祐三坪内 祐三(つぼうち ゆうぞう、1958年5月8日[1] - 2020年1月13日)は、日本の評論家、エッセイスト。東京都出身。 来歴東京都渋谷区本町に生まれる。兄弟は姉と二人の弟。隣家の住人は蘆原英了。1961年世田谷区赤堤に引っ越す。1965年世田谷区立赤堤小学校に入学。1971年世田谷区立松沢中学校に入学。1972年従大叔母である柳田冨美子(緑蔭館ギャラリーあるじ)の成城の邸宅で英語を習い始める。1974年早稲田高等学校に入学。1977年3月に早稲田高等学校を卒業。お茶の水の駿台予備校に通い始める。1978年早稲田大学第一文学部に入学。同級生の藤原昭広(「プレジデント」編集長)と同じサークルに入るため、ミニコミ誌「マイルストーン」に参加。大学の先輩の一志治夫(ノンフィクション作家)と知り合う。 1982年、就職活動で文藝春秋やアール・エフ・ラジオ日本ほか数社を受けるが、失敗する。文藝春秋は筆記試験で落ちる。1983年、1年間の留年の後、早稲田大学第一文学部人文専修卒業。卒業論文は「一九八二年の『福田恆存論』」(『後ろ向きで前へ進む』所収、指導教授は松原正)。早稲田大学大学院文学研究科英文学専攻修士課程修了に進学[2]。1986年同課程修了。修士論文のテーマはジョージ・スタイナー。1年半ほど無職となり、1987年の秋頃、父嘉雄のコネで都市出版の面接を受けて採用され、雑誌「東京人」の編集者になる[1]。 1990年9月末、都市出版を辞めてフリーとして活動[2]。(前年春に川本三郎の紹介により入社した加賀山弘の破格の待遇の煽りで、9歳年下の女性の同僚「ミカ」が8月末に解雇されたことが遠因と推測される)[独自研究?]。その頃、写真家の北島敬三の弟子であった神蔵美子と出会う。1991年『未来』1991年7月号から西堂行人の依頼により「変死するアメリカ作家」(のち「変死するアメリカ作家たち」)の連載を開始し、1993年5月号まで断続的に掲載。 1992年年末に編集・執筆に携った『月刊Asahi 特集:日本近代を読む「日記大全」』(1993年1月号、朝日新聞社)が発行。同誌特集号には度々編集・執筆に携った、後に93年11月発行『20世紀ニッポン異能・偉才100人』。94年2月発行『起業家123人 ニッポン近代開き』の単行判が刊行した。 1993年3月、高橋康雄に誘われ、目白学園女子短期大学国語国文科言語コミュニケーション専攻の非常勤講師となり、6年間勤めた。同年10月に『週刊朝日』誌上で月1回の書評を1996年9月まで担当する。翌94年に『ノーサイド 総特集 明治大正昭和 異色の父と子100組』(1994年8月号、文藝春秋)が発行。同誌には1996年6月の休刊まで、特集頁に何度か執筆した[3]。 1996年8月『週刊文春』誌上で「文庫本を狙え!」の連載を開始。『鳩よ!』に連載されていた『慶応三年生まれ 七人の旋毛曲り』が目黒考二の目にとまり、『本の雑誌』10月号で「特集 坪内祐三ロング・インタビュー」が掲載される。1997年4月、初めての単著『ストリートワイズ』を晶文社から上梓[1]。1999年、この頃神蔵と別れ、朝日新聞記者の佐久間文子と結婚か。 2000年9月『明治の文学』(全25冊、筑摩書房)を編集し、最初の配本が始まる。同年11月29日深夜、新宿にて、筑摩書房の松田哲夫と共に帰途に就こうとしていたところをヤクザ風の二人の男から因縁をつけられ、言い返したところ、暴行を受け瀕死の重傷を負い、東京女子医科大学病院に入院、連載は休筆。この事件の顛末は『三茶日記』『文学を探せ』『文庫本福袋』に詳しい。2001年1月22日、退院。同年3月早大教育学部非常勤講師。同年6月、父親の事業の不調により赤堤の実家が競売にかけられ、人手に渡る。この件に関しては『文学を探せ』に詳しい。同年9月『慶応三年生まれ 七人の旋毛曲り』で講談社エッセイ賞受賞[1][4]。 2003年3月、福田和也、リリー・フランキー、柳美里と共に同人参加し、超世代間をウリにした季刊文芸誌『en-taxi』を扶桑社より創刊[5]。作家の生原稿を古書店に処分した安原顯に対し、安原没後、創刊号で「記録の鞭」を打ち、一部で話題となる。「私は死をもってその人を赦すことをしない」「安原氏が他人をいきなり罵倒するのは、自分の駒だと思っていたはずの筆者が、その思い通りに動かなくなった時だ」など、辛辣に批判した。2006年3月、早大非常勤講師を退職。 2015年3月、坪内の文壇内幕エッセイ「酒中日記」を原作として、坪内本人も出演するドキュメンタリー映画『酒中日記』(内藤誠監督)が公開。同年11月『en-taxi』が46号で休刊[5]。 2020年1月13日、自宅で心不全のため死去[1][5]。61歳没。 2021年5月、妻・佐久間文子の回想記『ツボちゃんの話 夫・坪内祐三』(新潮社)が刊行(「新潮」で先行掲載)。 人物論争『RONZA』1996年7月号において、野口悠紀雄の『「超」勉強法』を激しく批判。「『「超」勉強法』にも、『知の技法』にも目を通していない。そして、目を通していなくとも、私には分かる。これらの本が語るものが、私が読書に求めているものではないことが。(略)実際に手にしてみなくても書かれている内容がわかる本がある。『「超」勉強法』 や『知の技法』は、そういった本だ。ただのマニュアル書だ」「この手の本の読者は、しょせん偏差値秀才のなれの果てだ。チャート式だか試験にでるなんとかだか知らないが、その類を、大学生になってまで、いや社会人になってまで求めている人々だろう。そういう人たちは、しょせん勉強には不向きなのだから、もっと別のお楽しみを探し求めたほうが賢明だろうに」と述べた。 それに対して野口は、自身のウェブサイトで「本を読まないで、なぜその内容がわかるのか?タイトルだけをみて、判断したのか?あるいは、雑誌での紹介などを参照したのか?(略)坪内氏は理由を述べていないので、ここでは何ともいえない。しかし、つぎのことは確実にいえる。それは、「出版物を評価しようとする場合、対象を読まなければならない」という当然のルールを、坪内氏が踏みにじったことである。『Ronza』のような市販雑誌において他の出版物に否定的な判定を下す場合に、対象を読むことは、鉄則である。坪内氏は、この最低限のルールを踏みにじり、しかもそれを公言してはばからないのである。これは、活字の世界において絶対に許されない行為だ」[6]と指摘し、さらに「このように不快かつ下劣な文章で自著の読者が愚弄されることには、我慢がならない」[6]として、3回にわたり坪内の言説とそれを掲載したRONZA編集部を強く非難した[6][7][8]。 RONZA編集部の鴨志田恵一編集長は9月号で「「目を通さなくとも分かる」とあったのは誤記であり、坪内氏は実は書店の店頭で立ち見みしていた」と説明したが、それに対して野口は「私は、「立読み評論」を決して認めない。市販されている本は、購入して読んでほしい。どうしても本を買う余裕がなければ、図書館で借りて読んでほしい。精魂込めて書いた本を立読み程度であげつらうのは、著者に失礼ではないか。また、立読みで書いた文章を読ませるのは、読者に失礼ではないか。 私は、「マニュアル書」に対する坪内氏の姿勢に対しても議論したいと考えていた。しかし、これは取りやめにする。「立読み評論家」とは、活字の世界の厳しさを知らぬ人達だからである」と坪内を切り捨てた[7]。 その他語り下ろしの著作である『総理大臣になりたい』(2013年)にて、「十数年前、物書きとして収入が右肩上がりだったときに(中略)私の収入は二〇〇〇万円は越えたものの三〇〇〇万円には届きませんでした」と述べている[9]。 家族・親族父は坪内嘉雄(1921〜2012)(元日経連専務理事、フィクサー、ダイヤモンド社元社長)[5]。母は坪内泰子。妻は佐久間文子(元朝日新聞社員)。前妻は神蔵美子(写真家)。父方の大叔父(父方祖母の弟)は織田正信(英文学者)。父方の祖先に手塚律蔵(別名瀬脇寿人、洋学者)。母方の曽祖父は井上通泰(国文学者・歌人・医師)、曾祖叔父は柳田國男(民俗学者)。母方の親戚に十代目市川團十郎がいる[10]。 著作
共著
編集
雑誌特集
解説
挿話
連載(2013年現在)
関連人物脚注
Information related to 坪内祐三 |