塩川 三四郎[1](しおかわ さんしろう、1873年(明治6年)4月12日[2][3] - 1965年(昭和40年)5月3日[4])は、日本の銀行家。ノーベル化学賞を受賞した野依良治は孫。
経歴
長野県北佐久郡三岡村(現・長野県小諸市)出身[1]。農業・銀行家[5]、塩川仁助の三男[2]。塩川幸太の弟[6]。1897年[7]、分家する[8]。
1885年、長野県立長野中学校上田支校(後の松本中学上田支校)に入学。翌年、第一次中学校令に伴い上田支校が松本校に統合されたため上京。中村敬宇の同仁社に学び、第一高等学校に入学[9]。1896年、第一高等学校大学予科を卒業[10]。
1899年、東京帝国大学法科大学政治学科を卒業[11][12]、大学院に入った後、馬越恭平に目をかけられ[13]帝国商業銀行試補となる[6][11][14]。1900年、大蔵大臣秘書官に任じられ、蔵相渡辺国武の随行で欧米を半年にわたり視察。1901年蔵相が鉄道建設費に関し第4次伊藤内閣の中で孤立し、5月2日首相が辞任すると、3日塩川も辞表を提出し秘書官を辞する[15]。
1902年1月英国に留学しオックスフォード大学で政治経済学を修め、銀行実務を練習する[6][11]。1903年6月帰国し日本銀行に入り、検査役、秘書役、営業局勤務、大阪支店在勤、京都出張所長、名古屋支店長、国庫局長、倫敦代理店監督役、調査局長を歴任[8][11]。
1920年8月、北海道拓殖銀行取締役に任じ、1921年8月から1924年2月まで副頭取[16]。
1927年に旧藝備銀行(現在の広島銀行)頭取に挙げられ1928年12月3日同行を愛媛銀行、伊予三島銀行、西条銀行と合併させた。しかし、西条銀行と愛媛銀行から相当数の不良債権が発見され、1933年に非常勤の取締役に降格、失意のうちに単身赴任先の広島から妻子の住む中野に引き上げている[17]。この間、広島商工会議所議員もつとめている[2][8][14][18]。
人物
宗教は曹洞宗[2]あるいはキリスト教[8][11][14]。趣味は書画[2]あるいは読書、旅行[8][14]。住所は東京中野区千光前町14[14](現中野2丁目13番地。邸宅跡地は中野区産業振興センターとなっている)。墓所は多磨霊園にあったが、2022年3月までに墓じまいされ小平霊園に合葬された[19]。
家族・親族
- 塩川家
- 親戚
脚注
参考文献
- 尾野好三編『成功亀鑑』大阪実業興信所、1909年。
- 人事興信所編『人事興信録 第3版』人事興信所、1903 - 1911年。
- 高野卯八編『信州百傑伝 第1編』朝報社、1906年。
- 東京帝国大学編『東京帝国大学一覧 從大正5年 至大正6年』東京帝国大学、1913 - 1924年。
- 東洋新報社編『大正人名辞典』東洋新報社、1917年。
- 人事興信所編『人事興信録 第7版』人事興信所、1925年。
- 『卒業生氏名』第一高等学校、1931年。
- 校外調査会編『帝国大学出身名鑑』校外調査会、1932年。
- 塩川三四郎編『佐久雄の面影 故塩川佐久雄追悼出版』私家版、1936年。
- 帝国秘密探偵社編『大衆人事録 第12版 東京篇』帝国秘密探偵社ほか、1938年。
- 人事興信所編『人事興信録 第10版 上』人事興信所、1937年。
- 人事興信所編『人事興信録 第12版 上』人事興信所、1940年。
- 人事興信所編『人事興信録 第13版 上』人事興信所、1941年。
- 人事興信所編『人事興信録 第14版 上』人事興信所、1943年。
- 北海道拓殖銀行『北海道拓殖銀行五十年史』北海道拓殖銀行五十周年記念事業委員会、1950年。