増田誓志
増田 誓志(ますだ ちかし、1985年6月19日 - )は、宮崎県宮崎市出身の元プロサッカー選手。元日本代表。ポジションはミッドフィールダー。主にボランチ(セントラルMF)、トップ下としてプレーする。 来歴クラブ鹿島アントラーズ2004年に鹿島アントラーズへ入団。同年5月2日の神戸戦がリーグ戦デビューとなり、同試合でリーグ初得点を挙げた。 2006年にパウロ・アウトゥオリ監督が就任するとボランチで起用される機会が増えたが、フェルナンドの負傷からの復帰や中後雅喜の台頭に伴いレギュラーポジションを確保するには至らなかった。 2007年にオズワルド・オリヴェイラが監督に就任すると鹿島は2009年シーズンまで3年連続のリーグ戦優勝を達成する。しかし増田自身はボランチでは小笠原満男、青木剛、中田浩二、攻撃的MFでは野沢拓也、本山雅志らの牙城を崩せず、厚い選手層に阻まれ出場機会が減少していった。 2010年1月6日、出場機会を求め、田代有三と共にモンテディオ山形へ期限付き移籍。 移籍後は増田の守備能力の問題で出場機会に恵まれなかったものの、シーズン途中にチームのフォーメーションが変更されてからは左セントラルMFでプレーする様になり、前線へ得意のラストパスを供給する司令塔としてレギュラーとなった。 2011年シーズンは鹿島に復帰。チームは本田拓也を補強し激しいポジション争いが予想されたが、シーズン途中からボランチのスタメンレギュラーを確保。 2012年シーズンは鹿島の選手会長就任、メインスポンサーの常陽銀行イメージキャラクターへの抜擢など中心選手としての活躍が期待されていたが、リーグ戦が開幕すると出場機会が大幅に減少し、ベンチ入りすらままならない時期も過ごした。 海外移籍2014年シーズン途中より大宮アルディージャに期限付き移籍で加入した[2]。だが大宮はJ2に降格することになった。12月13日、大宮との契約満了を発表した[3]。 2015年、大宮へのレンタル移籍から蔚山現代へ復帰。 2017年1月、アラビアン・ガルフ・リーグのアル・シャールジャSCCへ完全移籍。 清水エスパルス2017年8月、清水エスパルスへ完全移籍[4]。13日、J1第22節・対柏レイソル戦で後半30分に金子翔太と交代で移籍後初出場する[5]。25日のトレーニング中に受傷し、30日に静岡市内の病院にて検査を行ったところ左ハムストリングス肉離れと診断された[6]。12月2日、J1第34節・対ヴィッセル神戸戦で前半26分に移籍後初得点となるボレー弾を叩き込み、3-1の逆転勝利に貢献。最終節までヴァンフォーレ甲府と残り1つの残留枠を争っていた清水のJ1自力残留にも貢献した[7][8]。 Kリーグ2019年1月、韓国・Kリーグ2のソウルイーランドFCへ期限付き移籍[9]。蔚山現代以来3シーズンぶりに韓国でプレーをすることになる。12月11日、現役を引退する事を発表した[10]。 引退後引退後は山形市で飲食店「韓国酒場 チャン」を経営している。 代表2007年、北京オリンピックに向けた日本代表において予選では主力として活躍したが、翌年の本大会のメンバーには選出されなかった。 2011年7月28日、日本代表候補トレーニングキャンプメンバー(8月1日-3日、札幌)に初選出される。 2012年2月24日、キリンチャレンジカップ・アイスランド戦で代表初出場を果たした。 プレースタイル正確な長短のパスによるチャンスメイクやミドルシュートに加え、フィジカルの強さと上下動を繰り返すスタミナに優れているミッドフィルダー。山形在籍時に鹿島と対戦した際には青木剛が「接触プレーで凄く強い選手がいて、外国の選手かと思ったら誓志だった」[11] と発言しているほか、元日本代表監督のアルベルト・ザッケローニはアイスランドとの親善試合後増田について、チームメートへの献身度の高さゆえにスペースを消してしまう事もあるが、ピッチ全体をカバーができる選手であると発言している[12]。 所属クラブ
個人成績
その他の公式戦
タイトルクラブ
代表歴
試合数
出場
出演イメージキャラクター
脚注
関連項目外部リンク
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