大塚 博堂(おおつか はくどう、本名の読み:おおつか ひろたか、1944年3月22日 - 1981年5月18日)は、ニューミュージックのシンガーソングライター。大分県別府市出身。東洋音楽大学(現:東京音楽大学)声楽科中退。活動時の所属事務所は渡辺プロダクション。
以下の表記は、「博堂」で統一する。
1972年(昭和47年)に「大塚たけし」名義で歌手デビュー、デビュー曲は「自由に生きてほしい」。作曲:井上忠夫、作詞:阿久悠の音楽祭用の楽曲であったが、ヒットには繋がらなかった。その後クラブやライブハウスでの弾き語りの活動が評判になり、1976年(昭和51年)6月26日、『ダスティン・ホフマンになれなかったよ』で32歳での再デビュー。これが評価され、遅咲きながらも『めぐり逢い紡いで』、『過ぎ去りし想い出は』や『季節の中に埋もれて』などの曲で活発な音楽活動を行ったが、1981年(昭和56年)5月18日に脳内出血のため37歳で急逝した。5年間の活動に凝縮された彼の曲は、レコード化されたものが約80曲、没後に発表されたものを含めて約90曲ある。その他、小野寺昭、岩城滉一、ペギー葉山など他歌手に提供した歌が40曲ほどある。
ステージ活動を中心にして全国を回り、"愛を唄う吟遊詩人"として徐々に人気を高めていった。ファン層は20代・30代を中心とした女性が多く、コンサートでは涙を流しながら博堂の歌を聴く女性ファンが多かったと伝えられている。トレードマークはヒゲとサングラスで、コンサートは、年間100か所以上を数えた。
初期の作品は、デビュー曲『ダスティン・ホフマンになれなかったよ』を作詞した藤公之介と組んだものが多かったが、3枚目のアルバム『もう少しの居眠りを』から作詞家るい(本名:小坂洋二)が登場する。るいは博堂が所属する渡辺プロダクションの社員で、博堂担当のマネージャーだった。また、後期は山川啓介と数曲組んでいる。そして最後のアルバム『感傷』では、全作品の作詞を阿久悠が行っている。
博堂の没後も、曲を唄い継いでいる歌手達がいる。主にシャンソン系の歌手が、自分のライブなどで唄うことが多いが、大塚郷(博堂の甥)、田口徹、山田友人など、主に博堂の歌を唄って活動している歌手もいる。
また、「大塚博堂倶楽部」というファン組織が現存している。13回忌に「博堂メモリアルライブ」の企画で集まったファンの呼びかけで、1994年(平成6年)10月1日に出来た「大塚博堂ネットワーク」がその前身であり、1995年(平成7年)5月18日に『大塚博堂旅立ち15回周年メモリアルライブ』が、特別ゲストにペギー葉山を迎えて武蔵野公会堂で開催された。その後、「大塚博堂ネットワーク」は発展的に解散し、同年10月に「大塚博堂倶楽部」として結成された。その後、博堂の曲を21世紀に残すための活動や、メールマガジン「大塚博堂倶楽部通信」の発行などをしている。
(レコード化されなかった歌)
(参加順、バンドメンバーは入れ替わりあり、主なメンバー記載)
「めぐり逢い紡いで」―このタイトルは、覚えている方も多いと思うが、今年、三十七歳で亡くなられた歌手、大塚博堂さんの歌から拝借した。職業こそ違え、ぼくとほぼ同年齢で、彼の歌にはどこか“同世代の哀歓”が感じられたからだ。