大塚周一 (撮影技師)
大塚 周一(おおつか しゅういち、1902年1月7日 - 没年不詳)は、日本の撮影技師である[1][2][3][4][5][6]。 人物・来歴1918年(大正7年)、満16歳で旧制中学校を中途退学し、日活關西撮影所(法華堂撮影所)に入社する[1][2]。当時の同撮影所の技術者は、撮影部長の宮崎安吉以下、小川真喜多、高橋俊一(高橋寿康)、浜田行雄、橋本佐一郎、田中十三らが在籍した[7]。1923年(大正12年)6月1日、牧野省三が日活から独立し、マキノ映画製作所を設立すると、それに参加し、同年7月26日に公開された『燕の歌』(監督衣笠貞之助)の撮影技師を務める[3][4]。同作が記録に残る大塚の最初のクレジットである[3][4]。1924年(大正13年)7月、同社は東亜キネマに吸収され、等持院撮影所は東亜キネマ等持院撮影所となり、大塚は継続的に同社に入社した[3][4]。1925年(大正14年)には同社を退社して帝国キネマ演芸に移籍、同年3月12日に公開された『目明し惣七』(「二人の復讐者』、監督後藤秋声)ほかで撮影技師を務め、同社内紛により発生したアシヤ映画製作所、東邦映画製作所でも仕事をしたが、同年夏には東亜キネマ等持院撮影所に戻っている[3][4]。 1928年(昭和3年)には、マキノを離脱した山口俊雄や中根龍太郎の独立プロダクションで技師を務めたが、同年中にマキノ・プロダクションに入社している[3][4]。1929年(昭和4年)7月25日、牧野省三が亡くなり、その後に発表された新体制において、撮影部に名を連ねた[8]。1931年(昭和6年)に入ると、同社は資金繰りが悪化して製作が困難になり、大塚は、根岸東一郎らとともに東京に移り、河合映画製作社に移籍、「大塚秀一」の名で数本の撮影を手がけた[3][4]。1932年(昭和7年)には、羅門光三郎・原駒子夫妻を中心に奈良に設立された富国映画社に移るが、同社は資金繰りがすぐに悪化して、閉鎖されてしまう[3][4]。以降、各社を転々とする[3][4]。 1935年(昭和10年)11月、マキノ正博がトーキー専門の映画会社、マキノトーキー製作所を設立するとこれに参加、1936年(昭和11年)1月に発表された同社の陣容に名を連ねている[9]。同社は短命に終わり、1937年(昭和12年)4月には解散するが、最後に撮影技師を務めた『遊侠太平記』(監督牧陶六)は日活に売却され、日活京都撮影所の製作物として公開された[3][4][9]。 第二次世界大戦中には、電通映画社でドキュメンタリー映画を手がけており、1944年(昭和19年)5月25日に公開された『高等商船学校』にクレジットされた記録が残っている[4][10]。電通は分社化を行い、1943年(昭和18年)6月、政岡憲三らの日本映画科学研究所、桜井剛堂(桜井源太郎)らの京都映音研究所、中川紫郎の合同映画社を吸収合併して電通映画社を設立しており、大塚はこれに参加している[11]。同社の演出部には神脇満こと寿々喜多呂九平が在籍した[11]。戦後の消息については不明である。没年不詳。 フィルモグラフィクレジットは特筆以外すべて「撮影」である[3][4]。公開日の右側には監督を含む監督以外のクレジットがなされた場合の職名[3][4]、および東京国立近代美術館フィルムセンター(NFC)、マツダ映画社所蔵等の上映用プリントの現存状況についても記す[6][12]。同センター等に所蔵されていないものは、とくに1940年代以前の作品についてはほぼ現存しないフィルムである。資料によってタイトルの異なるものは併記した。 等持院撮影所すべて製作はマキノ映画製作所あるいは東亜キネマの「等持院撮影所」、配給は「マキノ映画製作所」あるいは「東亜キネマ」、すべてサイレント映画である[3][4]。
帝国キネマ演芸特筆以外すべて製作・配給は「帝国キネマ演芸」、すべてサイレント映画である[3][4]。
東亜キネマ特筆以外すべて製作は「東亜キネマ等持院撮影所」(京都撮影所)、配給は「東亜キネマ」、すべてサイレント映画である[3][4]。
マキノプロダクション御室撮影所すべて製作は「マキノプロダクション御室撮影所」、配給は「マキノ・プロダクション」、すべてサイレント映画である[3][4]。
河合映画製作社すべて製作・配給は「河合映画製作社」、すべてサイレント映画、すべて「大塚秀一」名義である[3][4]。
富国映画すべて製作・配給は「富国映画社」、すべてサイレント映画である[3][4]。 フリーランス
マキノトーキー製作所初期の特筆以外すべて製作・配給は「マキノトーキー製作所」、すべてトーキーである[3][4]。
ドキュメンタリー脚注
参考文献
関連項目外部リンク
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