大山デブ子
大山 デブ子(おおやま デブこ、1915年4月13日 - 1981年7月15日)は、日本の女優である。出生名神原 ヤス(かんばら ヤス)、結婚後本名伊勢野 ヤス(いせの ヤス)。一時期、蒲田 デブ子(かまた デブこ)、大山 でぶ子名義で活動していた時期もあった。 人物・略歴1915年(大正4年)4月13日 、奈良県奈良市にある興福寺の僧侶・神原清三郎と妻ハナの四女として同市内に生まれる。 大阪府の旧制・小坂小学校(現在の東大阪市立小阪小学校)に在学中の1924年(大正13年)5月、姉政子が松竹下加茂撮影所に入社、橘喜久子の芸名でデビューした。ヤスも同年、同撮影所の子役として『元禄女』に出演し、田中絹代と共にデビューを果たす。1925年(大正14年)の末、下加茂撮影所が閉鎖、全員が蒲田へと引き揚げた際に、彼女も姉とともに松竹蒲田撮影所へ移り、芸名を「蒲田 デブ子」とする。 1927年(昭和2年)、姉の病気もあり二人で松竹を退社、大和映画に移籍する。1928年(昭和3年)に河合プロダクション(後の河合映画製作社)に入社、その際に「大山 デブ子」に改名している。デブ子は愛嬌たっぷりの肥満体の大女で、かえってそれがユニークな存在となり、巨漢俳優・大岡怪童とともに映画界でも名物的存在となった。二人のコンビは大衆から広く受け入れられ、数多い共演作品が作られた。 河合映画が大都映画となってから一層本領を発揮、200本以上の映画に出演する。彼女がスクリーンに映っただけで観客が沸くほどであった。多い時には年間22本もの映画に出演、そのほとんどが三枚目的な役柄であった。また、大都映画時代には脚本家の伊勢野重任との恋愛を実らせ、1939年(昭和14年)所内にて結婚披露宴を行っている[1]。その2年後の1941年(昭和16年)に、大都映画を退社[2]、その後は夫の郷里である愛媛県松山市に落ち着き、二人の男子をもうけた[3]。夫の伊勢野は、家庭に入った彼女が「良妻賢母の鑑」であったと語っている[4]。 晩年は病気がちとなり、1973年(昭和48年)から糖尿病と高血圧のため入院や通院を繰り返していた。1979年(昭和54年)には緑内障を併発して失明する。1981年(昭和56年)1月19日、松山市土居田町の三宅内科胃腸科医院に入院、同年7月15日午前6時15分、慢性腎不全のために亡くなった。享年67(満66歳没)。告別式は同年7月17日、下伊台町の西法寺で行われた。喪主は二男の春夫が務めた[5]。 寺山修司と大山デブ子寺山修司の寵愛を受け、彼の初の実験映画「檻囚(1964年)」に出演。実際に撮影されたのは2年前の1962年(昭和37年)である。 後に寺山は「演劇実験室天井桟敷」の第二回公演として『大山デブコの犯罪』を1967年に上演するが[6]、大山デブ子の出演は叶わず、オーディションで選んだ女優に「大山デブコ(コが漢字の子ではなく、カタカナ表記)」と命名した。(『ウルトラセブン』 第47話「あなたはだぁれ?」に出演しているのは、「大山デブコ」の方である。) 2018年演劇ユニット「B機関」によって再演された[7]。 主な出演作品松竹キネマ河合映画
大都映画
その他
脚注
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