大御食神社(おおみけじんじゃ)は、長野県駒ヶ根市赤穂にある神社である。別名は美女ヶ森(びじょがもり)[1]。
祭神
神紋は「八花形」である。代々当社宮司を務める社家の阿智祝部(阿智氏)の支族・赤須氏は、出自が不明であるが、八意思兼神に始まる神の系譜に繋がるという系図も存在する[10]。阿智神社が破損した際、改築のため大御食社大足葦津彦が派遣されたという記録から、阿智神社とは古くからの深いつながりがあったとされる。
かつての赤須村6地区の総氏神で、各地区持ち回りで祭事の中心を務める。『全国神社名鑑』(1977年刊)によると氏子4,500戸、崇敬者15,000人。北は太田切川から南は片桐(上伊那郡中川村)まで氏子が広く分布していた時期もあったという。
歴史
沿革
その沿革は、明治5年(1872年)に「由緒明らかならず」として郷社に留まっているため、不明である[13][5]。
大御食神社には「神代文字社伝記」と呼ばれるいわゆる「神代文字」で記された社伝記が存在している。これを解読したのは「神代文字」肯定派の平田篤胤の影響を受けたとされる落合直澄であるが、彼の兄であり同じく平田篤胤の影響を受けていた落合直亮が後に伊勢神宮で和歌等を神代文字で書かせて保存させ偽物騒ぎを起こした人物のため、この神字社伝も捏造された偽書であるとされた[14]。
在野の歴史家・伴崎史郎が駒ヶ根市の市史編纂室において、大御食神社の社伝記に言及したところ、編纂室の「K氏」は「神代文字は、皇国史観の産物であり、信用できない」と社伝記の真実性を否定している[15]。
以下は「神代文字社伝記」を参考に記したものである。
境内
- 境内 - 1,500坪。
- 本殿 - 9坪。三間社流造で間口は4.2メートル。軒唐破風をもつ屋根は銅板葺で、もとはこけら葺であった。棟札から文久3年(1863年)9月着工、元治元年(1864年)4月に地鎮祭・上棟と考えられている。棟梁は斎藤常吉、彫工は立木音四郎で、ともに立川和四郎冨昌の弟子である。随所に立川流彫刻の特徴が見られる[3]。駒ヶ根市指定有形文化財(建造物)[19]。
- 神饌所 - 1947年(昭和22年)9月、赤穂小にあった旧奉安殿を移築したもの。
- 拝殿 - 30坪。大工の小口平四郎と、東京美術学校教授の矢崎貞之による共同建築である。1920年(大正9年)の建築。
- 神楽殿 - 間口6間、奥行き4間。旧拝殿を改築したものである。
- 流鏑馬所(やぶさめじょ)[3]
- 宝蔵 - 間口3間、奥行き2間。
- 社務所 - 44坪。
- 鳥居 - 石造の鳥居。1890年(明治23年)、石工・北原久平による。
- 狛犬 - 元禄11年の石狛犬のほか、上段に1952年(昭和27年)10月奉納の狛犬がある。
- 灯籠 - 文化6年のもの1基、慶応戌辰年のもの1基、その他享保4年のもの(神殿前の石灯籠)がある。
- 御蔭杉(みかげすぎ) - 神木。伝承によると神功皇后5年春3月、天安2年(858年)春の2度にわたって植継ぎを行ったという[22]。『上伊那郡史』(1921年刊)には「回り二丈余り」とある。
- 御手掛石 - 神木周りの玉垣内に置かれている。
境内社
『上伊那郡史』による。かっこ内は祭神。
このほか、『駒ケ根市誌 現代篇 下巻』では真澄神社が追加で紹介されている。
- 真澄神社(大山祇神) - 上赤須南原にあったものを、1973年(昭和48年)に合祀。
なお、『全国神社名鑑』では末社18社とある。
祭事
当社の例祭は9月20日至近の土曜日から日曜日にかけて行われる[17][注 4]。
- 獅子練り - 中世の時代より伝わる、五穀豊穣を祈願する祭事。曳いた獅子の頭を神前で切り落とし、供物とする。駒ヶ根市指定民俗文化財(無形民俗文化財)[19]。獅子頭は明和4年(1767年)に氏子より寄進されたもの。獅子舞自体は長野県南信地方の寺社だけでも160例を数えるが、獅子を神社に招いて討ち取り、その頭を納めるというのは当社と同市内の大宮五十鈴神社(赤穂2827)の他に例がなく、その発祥については不詳である[17]。
神事
文化財
- 駒ヶ根市指定有形文化財(建造物)
- 大御食神社 本殿 - 2011年(平成23年)12月27日指定[19]。#境内参照。
- 駒ヶ根市指定民俗文化財(無形民俗文化財)
- 社宝
交通アクセス
- 公共交通機関
- JR飯田線・小町屋駅が最寄り。直線距離で1,240メートル[28]。または駒ケ根駅から約2キロメートル、タクシーで10分間[1]。
- 自家用自動車
- 中央自動車道・駒ヶ根インターチェンジから自動車で20分間。普通車15台分の駐車場がある[1]。
大御食神社に関連する作品
- 詩歌(かっこ内は作者)
- 昔時をあふぎし見れば瑞籬の御蔭の杉の高くもあるかな(三条西季知)
- 代々を経しほども知られてうつくしの森の神杉神さびにけり(佐々木弘綱)
- あまつなるえみしことむけかへらしゝ美影を今も仰く神杉(徳大寺実則)
- 東征旌旆仰雄風、此地王孫曾駐驄、猶是老杉摩碧落、千秋色与大動崇(野村素介)
- 吾妻路のまかれるわたをすくにせししるし御蔭のすきはこの杉(国克、美濃国)
- いや高き御かけの杉は足引の屋まとおくなの神代よりして(直虎、尾張国)
- 1919年(大正8年)制定の赤穂学校校歌(作詞:小町谷常是)において当社について歌われている[30]。
脚注
注釈
- ^ 長野県神社庁「神社紹介」では当社所在地を「駒ケ根市赤穂字美女森11475」(引用)としている[2]。
- ^ a b 『美社神字解』では神代文字社伝記の当該部分を「大足彦忍代別天皇御代八十余八年」(引用、大足彦忍代別天皇は景行天皇のこと)と解読している。
- ^ ヤマトタケル赤須滞在の記事は他の史書に見えないが、『古事記』には坂の神を服従させたと伝わり、『日本書紀』では白い鹿の神を蒜で殺し、次に現れた白い犬に導かれて美濃国(現・岐阜県)へ出たとされる。またこの白い犬について、『諏訪史料叢書』巻28掲載の「神長守矢氏系譜」には、守矢実久が建御名方命の神功か、あるいは守矢氏の祖である小須美君の使いではないかとしている[8]。
- ^ 当社の例祭について、『全国神社名鑑』(1977年刊)・『角川日本地名大辞典』(1990年刊)には9月21日 - 9月22日とある。
出典
参考文献
関連文献
大御食神社刊
- 大御食神社『美女社大御食神社神代文字社伝記解読 附美女ケ森大御食神社由緒の略記』大御食神社、1983年。
- 大御食神社『美女ケ森大御食神社 由緒の略記』大御食神社、1983年。
市村誌
映像作品
- 『上伊那の祭りと行事 30選』上伊那広域連合企画、井上井月顕彰会・ヴィジュアルフォークロア製作、北村皆雄監督、2013年 (DVD)
その他
- 『美女ヶ森大御食神社 1900年記念誌』大御食神社総代会、2012年。
- 『美女ヶ森大御食神社の社宝』大御食神社総代会、2014年。
- 気賀澤兼義 著、市場割学芸委員会 編『大御食神社と祭典』市場割祭典委員会・市場割学芸委員会、1997年。
関連項目
ウィキメディア・コモンズには、
大御食神社に関連するカテゴリがあります。
外部リンク