安東次男
安東 次男(あんどう つぐお、1919年(大正8年)7月7日 - 2002年(平成14年)4月9日)は、日本の俳人、詩人[1]、評論家、翻訳家。俳号は流火艸堂。 来歴1919年(大正8年)岡山県苫田郡東苫田村(現在の津山市)生まれ[2]。小学5年時に一家で神戸に移住[3]。第二神戸中学校卒業後[3]、1937年、旧制第三高等学校文科丙類(フランス語)に入学。1941年(昭和16年)頃より「寒雷」に投句、加藤楸邨に俳句を学ぶ[2]。1942年(昭和17年)東京帝国大学経済学部経済学科を卒業[2]。海軍に志願し、敗戦時は海軍主計大尉。戦後、都立桜町高校社会科教諭、國學院大學フランス語講師などをへて、1966年東京外国語大学教授。1982年定年退官。 1949年(昭和24年)、詩作に転じ、抵抗派詩人として注目され始める。1950年(昭和25年)詩集『六月のみどりの夜は』(コスモス社)を刊行[2]、翌年6月、第二詩集『蘭』(月曜書房)を刊行する[2]など、旺盛に詩や評論を発表する。1960年代頃より、深い古典への造詣をふるって、松尾芭蕉の連句評釈を始め、古俳諧・百人一首・和歌・俳諧師・蕪村の伝記などの随想・評論を盛んに記す。『芭蕉七部集評釈』は代表的な評論であるが[2]、今栄蔵は安東の評釈を「本質はあくまで詩人のセンスに貫かれたそのみずみずしい発想と創造にあるというべきで、個々の評釈自体には問題が多いといえると思う」と評した[4]。1962年、『澱河歌の周辺』で読売文学賞を受賞[2]。 1990年頃より「寒雷」にふたたび俳句の発表をはじめる。現代詩を学んだ分、俳句においては古典趣味であった。1997年(平成9年)、句集『流』で第12回詩歌文学館賞受賞[2]。2001年(平成13年)頃から、持病の肺気腫と気管支喘息が悪化。2001年、勲四等旭日小綬章受章[5]。2002年(平成14年)4月9日、呼吸不全のため死去。享年84(満82歳)。4月16日、新宿区信濃町の千日谷会堂にて葬儀・告別式。葬儀委員長・中村稔、開式の辞・飯島耕一、弔辞・粟津則雄と大岡信であった。 著書
句集
詩集
評論
共編著
翻訳書
脚注
参考文献
外部リンク
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