寺島信子
寺島 信子(てらしま のぶこ[2][10]、てらじま のぶこ[5][1][11]、1929年1月23日[6][5][3] - )は、日本の女優、声優。東京都出身[3]。 略歴大和田小学校[12]、日出高等女学校(現・目黒日本大学高等学校)卒業[2][13][12]。高校卒業後は新協劇団の研究生となり、初舞台を踏む[3]。井上正夫演劇道場を経て[11][3]、父親の縁で[13]、水谷八重子 (初代)の一座に入団[3][11][注 1]。新派の舞台で6年間活動[2]。1950年には幹部となるが、一座が解散することになり[13]、ラジオ東京放送劇団に1期生として入団[5][13]。1957年4月に退団後は[14]、プレーヤーズセンター[3]、りんどうプロ[15]、第一協団[5]、森事務所[16]、東京俳優生活協同組合[17]、劇団新派[18]、江崎プロダクション[1]、田上事務所[10]に所属していた。 過去には市川寿美礼、近松麗江とともに竜の落とし子グループとして活動していた[3]。 1950年に『悲恋華』で映画デビューする。当初はラジオドラマの出演が多く、その後テレビドラマでは『これが青春だ』や『でっかい青春』などの青春学園ドラマで母親として出演していた。また、『ニルスのふしぎな旅』のアッカ隊長役や『ERII緊急救命室』などの海外ドラマで声優としても活躍しており、キャサリン・ヘップバーンを持ち役としていた[19]。現在は高齢のため、声優業を行っていない。 人物父親は新派の俳優、寺島正広[13]。弟の寺島康夫は[13]、東京放送技術局の業務部長を務めた[20]。息子がおり、テレビドラマ『パパ起きてちょうだい』(写真出演)、ラジオドラマ『最後の人』で親子共演を果たしている[21]。 ラジオ東京放送劇団の後輩であった嵯峨隆一とは結婚の約束をしていたが、嵯峨は1955年4月1日に熱海のホテルで自殺[22][13]。寺島が嵯峨に冷たくするようになったことを悲観しての自殺であるなどと報道された[22]。嵯峨の遺族から「許婚がいる相手を誘惑し、自身の潔白を主張して故人の名誉を棄損した」として損害賠償を請求された(後に取り下げ)[13]。寺島は許婚の存在に関して嵯峨から聞かされていたが[22][13]、嵯峨本人から「何とかする」と説明され[13][22]、嵯峨の母親からも「そのつもりなら、先方と話しを付けても良い」と答えられたこと述べている[22]。 寺島は許婚の件が片付くまでは結婚しないつもりだったこと、職場に恋愛を持ち込まないことを決めていたことや、スケジュールの都合で嵯峨に会う事が難しかったことが、彼を追い詰めてしまったのではないかと述べている[13]。 寺島は引退することを考えていたが水谷八重子から励まされたことで仕事を続けていくことが出来たとされる[11]。 1958年12月15日にTBSプロデューサーの原弘男と結婚し、赤坂プリンスホテルで式を挙げるが[7][8]、1963年に離婚[9]。離婚の条件として息子の親権は原に渡った[9]。その際、原からは「今後も母親として息子に接することは構わない」と言われたが、離婚後、息子は一月ごとに原の知人の家を転々とする生活を送らされた[9]。寺島は原の言葉を鵜呑みにしたことを後悔し、家庭裁判に親権者変更調停の申立てを行い親権を得ることに成功[9]。その後、原は一切の養育費を支払わず、TBS社内ではこのことがきっかけとなり、寺島の起用を控えるようになったとされる[9]。 後任・代役
出演作品テレビドラマ
映画
吹き替え洋画・海外ドラマ
海外アニメテレビアニメ
ナレーション脚注注釈出典
外部リンク
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