山本亡羊
山本 亡羊(やまもと ぼうよう)は江戸時代後期の医者、儒学者、本草学者。高槻藩臨時御用医。父山本封山に経学、医術、小野蘭山に本草学を学んだ。京都の自邸・山本読書室に西国各地から多くの弟子を迎え、講義、採薬、物産会を行い、多くの著作を残した。 生涯安永7年(1778年)6月16日、京都油小路通五条上ル上金仏町に生まれた[1]。父山本封山から経学、医術を学び、16歳から21歳まで小野蘭山に本草学を学んだ。また細合半斎に書と詩文、橋本経亮に礼法、東寺の麻田助太夫に雅楽、小沢蘆庵に和歌を学んだ[2]。寛政2年(1790年)夏、河田佐助に槍術、剣法を学び、皆伝を受けた[3]。 薬の効用を研究するため[4]、寛政10年(1798年)9月邸内に植物園を開き、各地で採集した植物を育て、文化13年(1816年)10月隣地を購入して拡張、文政2年(1819年)5月講堂、天保6年(1835年)書庫を建設した[5]。また、文化5年(1808年)から各寺院、文化13年(1808年)からは自宅で物産会を開催した[6]。 光格天皇が譲位して仙洞御所在住の頃、鷹司政煕により採薬使補任の話が持ち上がったが、間もなく上皇が崩御し、政煕も死去したため、立ち消えとなった[7][8]。 文政9年(1826年)シーボルトが江戸参府途中京都に滞在中交流し、この時贈られたというガラス薬瓶が現存する[9][10]。 弘化元年(1844年)3月高槻藩臨時御用医となり、毎月1回高槻に出張した[7]。嘉永年間には幕府より本草関係職へ登用の風聞があったが、心は朝廷にあり幕府仕官をいさぎよしとせず、病気を理由に謝絶した[8]。 安政3年(1856年)9月28日軽度の中風に罹り、一度快復したものの、安政6年(1859年)10月16日再発し、11月27日死去し[11]、11月30日深草山宝塔寺に葬られた[12]。明治42年(1909年)5月29日、正五位を追贈された[13]。 生活1月1日を除く毎日往診を行ったが、一人一人の診療を丁寧に行うため、1日に診療する人数を10人までとした[3]。講義は朝四ツ時から正午まで行い、2,7のつく日は医学、3,8の日は本草学、4,9の日は経学を教え、1日の夜は詩会、15日の夜は文会を開いた[7]。晩年は麗沢社と号して仲間内で文芸活動を行った[14] 趣味は、星野検校、山本検校に平曲を学び、時鳥と名付けた愛用の琵琶が現存する[2][15][16]。相撲及び相撲の観戦を好み、七目崎という力士を招いて自宅隣の空地で相撲を興行したこともあった[2]。囲碁も好んだが、腕は初段との対局で井目程度だった[2][8]。 著書刊本写本
門人儒学本草学飯沼慾斎等蘭山の門弟も蘭山の死後門下に入り[43]、典薬寮医の多くも門下にあった[39]。 公家一条忠香、水戸藩水戸斉昭、津藩藤堂高猷、富山藩前田利保にも直接または間接的に講義、助言等を行った[44] 交友頼山陽、浦上春琴の人となりを喜ばず、二人に接したことはなかった。山陽のことは会所(髪結床)の日手間、春琴のことは巾着切と蔑んだ[8]。 親族
家族に対する態度は厳格で、息子等には20歳から60歳までは自ら生計を立てるよう命じ、「同居合貲の法」を定めて給料を一括管理し、毎月金2歩を給付した[54]。また、黄庭堅の句「蔵書万巻、可教子。遺金満籝、常作災。」に倣い財産を遺さなかった[55]。 近年の芝居は猥雑だとして家人に芝居小屋の出入を禁じ、代わりに野村三次郎の常桟敷を購入し、交代で能を鑑賞させた[56]。三男秀夫の妻が実家小倉家に帰省中、家族と四条[要曖昧さ回避]の小屋に赴いた所、離縁の談判に及び、仲人鈴鹿筑後守の取り持ちで事なきを得た[57]。 脚注
参考文献
外部リンク
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