山本渓愚
山本 渓愚[1](やまもと けいぐ、文政10年1月9日(1827年2月4日) - 明治36年(1903年)10月27日)は幕末明治の儒学者、本草学者、博物画家。 「渓愚」は号。字から山本 章夫(やまもと あやお)とも呼ばれる[2]。 京都の本草学者山本亡羊の子。明治初年駅逓司、博覧会事務局等に関わったが、次兄山本秀夫没後、山本読書室を受け継ぎ、聚芳社を創立した。また、久邇宮家、本圀寺、京都市美術学校等で漢学・道徳を教え、賛育学社で漢方存続運動を指導した。 生涯修学文政10年(1827年)1月9日京都油小路通五条上ル上金仏町に生まれた[3]。山本家の下、6歳で漢詩を始め、9歳で四書を暗誦し、12歳で四書五経に通じた[3]。15歳で森徹山、蒲生竹山に絵画を学んだ[3]。 西国各地へ採薬旅行に赴き、嘉永4年(1851年)には北越地方[4]、文久2年(1862年)には周防国まで足を伸ばしている[5]。 政府出仕明治元年(1868年)3月太政官により内国事務局書記を命じられ、4月会計官駅逓司、5月駅逓司判事、次いで知事試補となるも、7月判事に戻り、9月判事頭取に就任した[6]。明治2年(1869年)2月8日聖上御車幸御用掛となり、3月7日明治天皇に従い東京に渡った[6]。5月19日駅逓司を辞職し、6月20日京都に帰った[7]。 明治5年(1872年)3月博覧会事務局に出仕し、4月東京に戻り[7]、ウィーン万国博覧会事務に携わり[8]、明治6年(1873年)11月辞職し、京都に帰った[7]。 明治8年(1875年)10月京都博物館御用掛[8]、明治18年(1885年)3月京都博覧会特別品評部長を務めた[9]。 本草会活動文久元年(1861年)8月1日から海紅亭と号して物産会を行った[10]。明治7年(1874年)5月10日松原通不明門の大火で本家読書室が焼失すると、明治8年(1875年)2月新居を建て、明治9年(1876年)10月10日本草会を引継ぎ、以降毎月15日に開いた[7]。 明治20年(1887年)11月聚芳社を創立し[11]、後に博物会と改称された[12]。 教育活動明治13年(1880年)1月23日久邇宮朝彦親王により彦宮(久邇宮邦彦王)侍講を任され、明治23年(1890年)3月成城学校入学まで書画、漢籍、経史を教えた[13]。その後多嘉王、女王7名、厳宮(賀陽宮邦憲王)、邦憲王妃に教えた[14]。また、明治17年(1884年)生まれた第四王女を命名した[9]。 明治13年(1880年)4月から明治29年8月まで本圀寺教主の要請で僧侶に講義を行った[15]。明治14年(1881年)11月賛育学社都講となって漢方医学を教え[9]、明治27年(1894年)5月京都市美術学校講師、7月日本弘道会京都支部名誉講師も歴任した[15]。 晩年明治32年(1899年)1月杭州の考証学者兪曲園に自著「考訂孝経」「考訂大学」「考訂中庸」の三書を贈り、兪曲園から碩学の士と称えられた[16]。 明治32年(1899年)5月脳卒中で言語渋滞、半身不随となるも、12月平癒した[17]。明治35年(1902年)病のため久邇宮侍講を辞職した[18]。明治36年(1903年)8月頃腸内不利となり、10月26日悪化し、27日払暁死去し[17]、紀伊郡深草村宝塔寺に葬られた[19]。 著書経学等本草学詩文親族
脚注
参考文献
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