岡崎朋美
岡崎 朋美(おかざき ともみ、本名:安武朋美〈旧姓:岡崎〉 1971年9月7日 - )は、北海道斜里郡清里町出身の日本の元スピードスケート選手。聖徳大学客員教授。 1998年長野オリンピックスピードスケート女子500メートル銅メダリスト。1994年リレハンメルオリンピック、1998年長野オリンピック、2002年ソルトレークシティオリンピック、2006年トリノオリンピック、2010年バンクーバーオリンピックと、5度の冬季オリンピックに出場。2008年北京オリンピック日本代表(自転車トラックレース女子スプリント)の佃咲江(北海道網走郡美幌町出身)は、北海道釧路星園高等学校スピードスケート部の後輩である。 略歴実家は酪農業だった。小学3年生でスケートを始め、清里中学校、釧路星園高校を経て、富士急行へ入社。それまではインターハイでも4位と無名だったが、富士急スケート部の監督だった長田照正が高校2年の岡崎を見てその素質を見抜きスカウト。先輩である橋本聖子とともに練習を重ね、才能を開花させる。 1998年長野オリンピックで日本女子短距離として初めてメダル(銅)を獲得し、そのさわやかな笑顔は「朋美スマイル」と呼ばれ全国的な人気者となった。その後は椎間板ヘルニアに悩まされるもカムバック。 2002年ソルトレークシティオリンピック500メートルで当時の日本記録を樹立。2005年1月には通算7度目となる日本記録の更新(37秒73)を達成。社業でも1998年長野オリンピック後に富士急行の課長代理に昇進。その後日本新記録を出して課長、記録更新で次長代理となり、最終的には宣伝部次長まで昇進している。 2006年トリノオリンピックでは、日本選手団の主将を務める。風邪による体調不良のハンデを背負いながらも、500メートルでは1本目、2本目共に38秒46をマークし、4位入賞を果たした。同年12月の全日本スプリント選手権では年齢による体力の衰えを感じさせないスケーティングで9年振り3度目の総合優勝を達成。表彰式のプレゼンターは岡崎が尊敬する富士急の元先輩・橋本聖子(当時日本スケート連盟会長)で、表彰状授与式で橋本が「表彰状・・・優勝、岡崎朋美。35歳!」と、岡崎の当時の実年齢までアドリブで読み上げ、会場内の笑いを誘う一幕もあった。 2007年8月27日、元アスリートの安武宏倫氏との婚約を発表。11月24日、所属する富士急行系列のハイランドリゾートホテル&スパにて結婚式を執り行った。 2009年12月、長野市のエムウエーブで行なわれた2010年バンクーバーオリンピック代表選考会で総合2位となり、冬季オリンピックの日本女子で最年長、最多の5大会連続出場を果たした。2010年バンクーバーオリンピック開会式にて日本選手団の旗手を務め、競技では500メートル16位、1000メートル34位となる。スピードスケート人気の高いオランダでは岡崎朋美ファンクラブがあり、オランダ国外の大会にも遠征するほどの熱心なファンが存在した[1]。 2010年8月、妊娠を発表し、同年12月23日に第一子となる長女を出産した。常に限界を考えずマイペースをモットーとしているため、現役中は年齢をさほど気にしていなかったといい、日本女子では通算最多記録となる6度目の冬季オリンピックで42歳となる2014年ソチオリンピック日本代表も目指していた[2]。だが2013年12月28日、エムウエーブで行われた2014年ソチオリンピック代表選考会の500メートルで6位に終わり、ソチオリンピック出場が絶望的となったことで現役引退を表明した[3]。 2015年10月31日付で宣伝部次長を最後に富士急行を退社、アドバイザーへの転任を発表した。翌11月1日付よりよしもとクリエイティブ・エージェンシーとマネジメント契約を結び、活動の場を広げる意向を表明した[4]。なお、橋本参議院議員同様に岡崎自身も「現役中も2回程(国政に)オファーがありました」と政界打診があったとし、岡崎は「私はスケートがやりたいのでと(断った)。聖子さんには憧れていますが、私は議員というタイプではないです。違う分野で頑張りたいです」と政界転身は行わなかったと述べている[5]。 2019年11月24日に青森県の八戸市スポーツ大使委嘱となる[6]。 2020年3月にカナダで第12回マスターズ国際スプリントゲームズに出場。F45(45歳以上50歳未満)のカテゴリー500m・スプリントサマリー(4種目総合ポイント)で世界新を記録、金メダルを獲得した[7]。 2021年6月27日に1年延期された東京オリンピックの聖火リレーの山梨県2日目のランナーとして登場した[8]。 主な成績
その他
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メディア出演現在の出演番組レギュラー出演
過去の出演番組レギュラー番組
ラジオ
雑誌
脚注
関連項目外部リンク
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