広橋公寿
広橋 公寿(ひろはし こうじゅ、1957年1月11日 - )は、福岡県宗像郡玄海町(現在の宗像市)出身[1]の元プロ野球選手(内野手、外野手)、野球指導者。 東北楽天ゴールデンイーグルス創設期のコーチ陣の1人で、2022年から青山東京ボーイズの監督を務める[2][3]。 長男は2005年の四国アイランドリーグ第1期生として、高知ファイティングドッグスへ1年間在籍していた広橋貴寿[4]。自身と同じく楽天球団の創設メンバーで、元プロ野球選手の岩隈久志は義理の息子(長女の夫)にあたる[5]。 経歴選手時代東海大五高から八幡大学に進学。九州六大学リーグでは在学中3度優勝。投手としてベストナイン2回。 大学卒業後は、社会人野球の東芝に入社。1979年から2年連続で都市対抗野球に出場し、リードオフマンとして活躍する。東芝のチームメートに黒紙義弘、菊地恭一らがいた。 1980年オフに、ドラフト外で西武ライオンズへ入団。同期のドラフト外入団に秋山幸二がいる。 1年目の1981年から一軍に定着。開幕直後から行沢久隆と三塁手のレギュラーを争い、同年は44試合に先発出場。翌年からスティーブ・オンティベロスが三塁に回ったため、外野手も兼ね、ユーティリティプレイヤーとして長く活躍した。左投手にはめっぽう強く、しぶとい打撃で、西岡良洋と共に左キラーとして当時の監督広岡達朗に重宝される。 1983年の読売ジャイアンツとの日本シリーズでは、俊足を活かし代走として4試合、代打で1試合に出場。1984年にはシーズン中盤から一番打者に起用され、50試合に先発出場、打率.296の好成績を残す。1985年には規定打席不足ながら打率.301をマークしている。同年の阪神タイガースとの日本シリーズでは代打、守備固めとして3試合に出場。第4戦では9回表に勝ち越しの導火線となる安打を放っている。1986年には故障もあって後半戦を棒に振り、その後は代打、指名打者としての起用が主となった。 1989年オフ、宮下昌己・大宮龍男との交換トレードで小川宗直と共に中日ドラゴンズへ移籍。1990年オフ、小早川幸二との交換トレードで、地元福岡ダイエーホークスに移籍。1991年限りで現役引退。 現役引退後福岡県内のゴルフ場に勤務するかたわら、九州地区からの中継限定で文化放送の野球解説者を務めた。1995年から2003年まで、西武で守備走塁コーチや打撃コーチを歴任。2004年には、テレビ埼玉野球解説者・西日本スポーツ野球評論家として活動した。 広橋の能力を買っていた西武時代の同僚の監督・田尾安志の招聘で[6]東北楽天ゴールデンイーグルスがNPBに参入した2005年に、同球団の一軍外野守備走塁コーチへ就任。シーズン途中からは、一軍打撃コーチから二軍打撃コーチへ降格した駒田徳広に代わって、一軍打撃コーチを務めた。2006年から二軍打撃コーチ、2008年から二軍外野守備走塁コーチ、2011年には二軍育成チーフコーチ(5月16日以降は二軍打撃コーチ)を担当。2010年7月には、当時の二軍監督・仁村徹の病気療養を受けて、二軍監督代行を務めた。2012年には育成チーフコーチを担当したが、シーズン終了後にコーチ契約を行わない旨を伝えられた[7][8]。広橋の退団によって、楽天球団創設時点での監督・コーチ陣は全員が退任した。 2013年には、韓国のフューチャーズリーグに参加していた高陽ワンダーズで打撃コーチを担当。 2014年に楽天球団へ復帰すると、「楽天イーグルス ベースボールスクール」(楽天球団が運営する少年野球教室)のコーチ(ジュニア部門統括担当)を務めた[9]。さらに、楽天球団が同年12月7日に「東北楽天リトルシニア」(NPB加盟球団が初めて保有・運営するリトルシニアチーム)を設立させたことを受けて、2015年から総監督を兼務していた[10]。その後は楽天球団がバックアップしているクラーク記念国際高等学校仙台キャンパスの女子硬式野球部のヘッドコーチを兼任した[11][12]。2019年限りで、楽天球団を再び退団。 2020年からは、エイジェック女子硬式野球部(ヴィーナスリーグの3部に加盟するチーム)で監督を務める[13]。 2021年は1年間で日本一4回を達成し[14]、当年限りで退任[15]。 2022年からは岩隈久志が創設した「青山東京ボーイズ」で監督を務める[2][3]。 詳細情報年度別打撃成績
記録
背番号
関連情報出演番組脚注
関連項目Information related to 広橋公寿 |