悪魔の飽食
『悪魔の飽食』(あくまのほうしょく)は、小説家森村誠一の1980年代の著作。第二次世界大戦中の「日本の人体実験」(主に関東軍防疫給水部本部、通称731部隊によるもの)を告発する内容で、日本共産党中央機関紙「赤旗」で連載され、1981年11月に光文社から刊行[1]。刊行翌年、続編『続・悪魔の飽食』とともに1982年の日本のベストセラーに数えられた[1]。赤旗の記者下里正樹が共同作業者を務めた[2]。 『続・悪魔の飽食』に日本軍による人体実験の写真として掲載されたものの一部が無関係な写真であったことが出版後に判明して問題となり、絶版・改収[3][4]。後に写真を削除した改訂版が出版された[4]。第3部は1983年(昭和58年)に角川書店の「カドカワノベルズ」から単行本として刊行された。2014年(平成26年)にKADOKAWAから電子書籍版も発売[5][6][7]。 成立森村誠一が日本共産党機関紙「赤旗」(現在の「しんぶん赤旗」)の記者下里正樹との共同取材に基づいて[8]、関東軍731部隊による生物兵器研究や人体実験について記した書籍である。第1部は1981年(昭和56年)に『赤旗』日刊紙版に、第2部は1982年(昭和57年)に『赤旗日曜版』に連載され、二冊は光文社から単行本として刊行された[1]。 森村と下里は、この作品に先立って同じく『赤旗』で連載された作品「指名手配」で出会っていた[9][10]。森村はその後『赤旗』で小説『死の器』を連載し、その中で731部隊を取り上げた[11]。森村は、この後、731部隊について情報提供をしたいという読者からの申し出があったことを『悪魔の飽食』執筆の背景として挙げる[11]。森村は元隊員からの一本の電話を糸口として、その人脈をたどって取材することで未公表の情報が多く得られると予想し、取材を始めた[10]。資料が集まるにつれ、小説『死の器』で当初予定していたストーリー内で取り上げ切れない範囲のものが増えたため、別途ノンフィクションを構成することにしたという[12]。森村にとっては「初のドキュメントへの挑戦」だった[10]。このための取材の費用は、森村が『人間の証明』の出版で得た収入から捻出された[13][14]。 本作は731部隊の生物兵器研究や人体実験を扱った最初の著作というわけではない。吉村昭は1970年に『細菌』(後に『蚤と爆弾』に改題)を発表しており[15]、TBSは1975年に『魔の731部隊』、1976年に『続・魔の731部隊』というテレビルポルタージュ(いずれもディレクターは吉永春子)を放映しており、これらの番組内では同部隊の元隊員がインタビューに答えて人体実験が行われていたことを語っている[16]。また、1981年(昭和56年)の5月に、常石敬一が海鳴社から『消えた細菌戦部隊』を刊行していた[17][18][19]。 森村はこれと前後して731部隊の被害者を題材にした推理小説『新・人間の証明』を執筆した[20][21](『人間の証明』とは別作品である)。 『続・悪魔の飽食』1981年11月の『悪魔の飽食』に続き、翌1982年7月に森村と下里の共同執筆で『続・悪魔の飽食』が光文社から出版された[22]。この際誤った写真が掲載されていたことが問題となり、改収・絶版され、後に改訂版が出版された[3]。 偽写真問題による絶版と再販『続・悪魔の飽食』は元隊員であったという人物Aから提供された写真を、新発見のものとして収録した。その一部に、別の20世紀初頭の満洲におけるペスト流行のときの写真など、731部隊に関係しない写真が含まれていたことが、1982年9月に明らかにされた[23]。この時点で『続・悪魔の飽食』は前作と合わせてベストセラーになっていた[23]。後の森村の説明によれば、「元隊員から提供された第二部に使用した写真の中に、七三一部隊とは関係ない明治四十三(一九一〇)年から翌年にかけて中国東北部に流行したペストの惨状の写真が混入されていた」[11]。1982年10月の森村とAが同席する会見で、Aは写真に付いていた説明文を塗り潰して森村に提供したと告白した[24]。森村と光文社の説明によれば、提供者Aは七三一部隊の石井四郎の親族と関係のあった人物で、問題の写真は他の元隊員複数による判定で本物と見なされていたという[25][26]。森村は後に、同書のグラビアに用いた「本物の写真の中に偽物が混入されて提供されたので、真偽の判別ができなかった」と述べた[27]。 日本経済新聞によれば、この発見の切っ掛けは、郷土史研究をする東京の会社員が古本屋で同じ写真が掲載された写真帖に偶然遭遇したことだった[23]。日本経済新聞に続いて、サンケイと読売新聞も誤用問題を取り上げ、森村の責任を追及した[20]。 森村が誤りを認めた後、光文社がおわびの社告を新聞に掲載するとともに、書店に回収要請をし、訂正版を出版することを告知した[28]。この後、森村は光文社の依頼に応じて経緯を説明するための原稿を光文社に提示したが、両者の間で意見が対立し、森村は12月までに同書の絶版を光文社に申し入れた[29][30]。森村 1983c第3部と、森村 1983a第1部・森村 1983b第2部の改訂版が、問題の写真を削除した上で、角川書店より新たに出版されることとなった[31][32][33][34]。 角川書店の角川春樹はこのことについて後に「内容がどうのこうのということより、作者が森村誠一さんであったことと、こうした脅迫に屈したら日本の出版の自由は退歩すると考え、退かなかった」と述懐した[35]。これを出版したことで、角川書店にも右翼活動家が乗り込んできたことがあったという[35]。 日本経済新聞社はこの問題を報じた自社のスクープを1983年度新聞協会賞に応募した(選外)[36]。 反響・評価・批判『悪魔の飽食』は刊行後、深夜テレビ番組「トゥナイト」や「11PM」で紹介され、当初若者を中心に、後に広い層に読まれ、国際的にも反響を呼んだ[1]。以降、731部隊に関する賛否さまざまな視点からの著作が発表される事となる。 大映(現:KADOKAWA)がすぐに映画化しようと山本薩夫監督を立て、中国側と旧満州ロケの話し合いは成立していたが[37]、山本の急死で製作が宙に浮き、佐藤純彌監督に『空海』の後、引き継いでもらおうとしたが実現しなかった[37]。 一方、森村によれば、森村は本書を刊行したこと、そして上記の写真誤用問題で右翼の街宣車から罵声を浴びせられたり、嫌がらせ電話や窓への投石をされた[11][38]。このため、警察が森村の家の警備に付いたという[39]。 歴史学者の江口圭一は家永教科書裁判で証人として法廷に立った際、『悪魔の飽食』3部作は元隊員の証言、現存する記録の分析、実地調査などに基いていて、「その史料的豊富さ、あるいは実証性は、そこらのいわゆるドキュメントの一般の水準を遥かに抜き去る第一級のものである」と評価した。写真誤用問題については、改訂版で問題の写真を取り除くことで解決済みであり、「本書の記述内容に対しては何の影響もダメージも与えなかった」とした[40]。歴史学者の秦郁彦は、731部隊による細菌戦研究や人体実験を認めつつも、『悪魔の飽食』を「ノベル(小説)とノンフィクションがごちゃまぜになった」性格の作品と評した[41]。秦によれば、写真誤用事件が社会的に注目されたことが奇しくも切っ掛けとなって、生き残り幹部らが森村説を訂正する意図で口を開くようになったり、歴史家の間でも米側にある公文書や731部隊関係資料発掘などが進み、「森村事件以後の数年、七三一部隊に関する学術的研究は大幅に進展した」とする[41]。 作家の北方謙三は『夜と霧』に匹敵する内容の克明さだと評価した[42]。 評論家の山本七平は「本来、ノンフィクション物では、どこか一点でも虚偽があったらそれで全体が信用されないはずのものだ」として、写真以外の部分の真実性を疑った[43]。評論家の斎藤美奈子は『悪魔の飽食』の731部隊についての記述を「カッパ・ノベルスという大衆的なメディアで放った意義は大きかった」とする一方、一部に「ドラマチックな表現」があり「演出過剰」のきらいがあるとする[44]。 筑波大学歴史・人類学系の教授であった中川八洋は正論の誌面のなかで、「ノンフィクション作品」ではなく、「プロパガンダ小説」であると主張した[45]。 翻訳・翻案
書誌情報単に『悪魔の飽食』と呼ぶ場合は第1部を指す。続編である『続・悪魔の飽食』は第2部を指す。第1部と第2部は最初、光文社から出版された。その後、角川文庫に収録された第1部と第2部は光文社版から改訂されているので新版と呼ばれる。第3部は『悪魔の飽食 第三部』として、最初、カドカワノベルズとして出版され、その後、角川文庫に収録された。『〈悪魔の飽食〉ノート』はノートと略記する。『ノーモア悪魔の飽食』はノーモアと略記する。
第1部
ノート
第2部
第3部
ノーモア
脚注
参考文献
関連文献図書
記事以下、発表された順に配置する。
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