慶安御触書慶安御触書(けいあんのおふれがき)または慶安の触書は、江戸幕府が農民統制のため発令した幕法とされていた文書。末尾に慶安2年2月26日(1649年4月7日)の日付のある32条からなる文書である[1]。 原本は発見されておらず、写本によれば百姓に対し贅沢を戒め、農業など家業に精を出すよう求めたものであり、32ヵ条と奥書から成り立つ。農政の基本方針が小百姓の育成とはっきり決まったことを意味する[2]。 江戸時代の農村の古文書や幕府関係者の日記類などにも見当たらないことから、現在では幕府の公布した法令ではないという学説が有力になっている[1]。かつては歴史教科書にも載せられていたが、近年の多くの教科書では、「慶安御触書」を記載しないか、慶安年間に幕府が発令したとは明記しなくなっている[3]。 主な内容底本により含まれる条文は異なるが、以下に一例を挙げる。
実在性の論争江戸時代の『徳川実紀』や明治期に司法省が編纂した幕府法令集『徳川禁令考』に収録されたことから、幕法であるとする見解が広く流布していた[4]。昭和戦後期には民衆史への関心の高まりからも幕府の農民統制を示す史料として注目され続け、歴史教科書においても紹介されていた。 しかし、明治期から疑問視する説や偽書説が存在していた[5]。内藤耻叟は『徳川十五代史』で「文中イブカシキコトモアレバ」として採録をしておらず、幕府法ではなく地方領主の出した法令とみていたようである[6]。キリスト教を禁止する規定がないことや、『御触書集成』など幕府の法令集に収録されていないことなどを理由に、実在を疑問視する指摘がなされてきた[5]。 発生への経緯「慶安御触書」の呼称が用いられ広く知られるようになったきっかけは美濃国岩村藩で出版された文政13年(1830年)の木版本である[1]。肥前国平戸藩主の松浦静山『甲子夜話』によれば、静山は幕府学問所総裁の林述斎から岩村藩に慶安年間発令の幕法が存在していると聞かされており、述斎は藩政改革が実施されていた岩村藩において「慶安御触書」を流布させていたという。述斎は「慶安御触書」を『徳川実紀』にも収録させており、これを契機に社会構造が動揺し飢饉や一揆などが多発した天保年間には「慶安御触書」は慶安年間の幕法として諸国に広まったと考えられている。領主が慶安御触書を採用した地域としては、沼田藩(1830年)、掛川藩(1833年)、米沢藩(1834年)、千村平右衛門預所(1834年)、椎谷藩信濃国高井郡飛地(1835年)、成羽知行所(1837年)、関東天領(1838年)、信濃国中之条天領(1841年)、三河吉田藩(1848年・1850年)、芝山藩(1870年)が確認でき、秋月藩も1840年に採用を検討している[7]。 しかし、『甲子夜話』にある岩村藩に触書が伝来している旨の林述斎の話は、史料の残存状況から疑問視されている[1]。そこで「慶安御触書」について記された岩村藩の文政13年(1830年)の木版本のルーツが議論になっている[1]。
年表
脚注
参考文献
関連項目日本中世史の歴史家である藤木久志は、『慶安御触書』とこれら2つの史料を、「みじめな民衆三点セット」と呼んだ[要出典]。 外部リンクInformation related to 慶安御触書 |