日高孝次
日高 孝次(ひだか こうじ、1903年11月4日 - 1984年8月15日)は、日本の海洋物理学者。弟は歴史学者の日高次吉。 経歴1903年に宮崎県宮崎郡広瀬村(現在の宮崎市)で出生[1]。旧制宮崎中学を経て第七高等学校造士館を卒業後、東京帝国大学理学部物理学科に進学し、1926年(大正15年)に同大学を卒業[1][2]。その後すぐに中央気象台に入庁、海洋気象台で勤務した[2]。この間、転倒温度計に関する日高公式を作成した[2]。 1934年(昭和9年)に「湖沼の振動及び海流に関する海洋物理学的研究」で理学博士[2]。同論文で帝国学士院から学士院賞を受賞した[2]。1941年(昭和16年)、他の日本の海洋学者らとともに日本海洋学会を設立し、自身も1948年(昭和23年)から1966年(昭和41年)まで同会会長を務めた[3]。1942年(昭和17年)に東京帝国大学理学部地球物理学科の第一講座教授になった[2]。 終戦直後、青年達が米兵がもたらした自由を無批判に受け入れることを恐れ、国際的に通用するマナーを青年に身につけさせるための社交場を発足させた[1]。この社交場は日高パーティーと呼称された[1]。その真意が理解されず、結婚相談所と誤解され、学者の本分を忘れているという批判もあった[1]。なお、日高本人は3度結婚しており、最初の妻は病で実家に戻り、2度目の妻は病死、3度目の妻が艶子である[1]。 1962年(昭和37年)東京大学海洋研究所を創設し、初代所長に就任。その他、東海大学教授などを歴任した[2]。1966年(昭和41年)、数々の海洋物理学に対する功績に対して、日本人として初めて、海洋研究最高の賞モナコ大公アルベール1世記念メダルを受賞した[1]。 1984年(昭和59年)8月15日[2]、脳梗塞により死去。享年80歳[2]。 著書
共著編
翻訳
脚注
関連項目
|