明石和衛
明石 和衛(あかし かずえ、1888年(明治21年)8月30日[1] - 1956年(昭和31年)5月6日[1])は、日本の機械工学者(精密工学)、実業家。東京帝国大学卒業後、明石製作所を創業。工学博士となり、精密工学会会長を務めた。 日本の陸上競技黎明期に短距離走・中距離走・走幅跳の選手として活躍したほか、昭和初期にはゴルフに傾倒してゴルフコースの設計を行うなど、スポーツの世界にも足跡を残した。 生涯東京生まれ[2]。第一高等学校から東京帝国大学に進む。1913年(大正2年)東京帝国大学工科大学機械工学科を卒業。「恩賜の銀時計」を受け[3]、大学院特選給費学生として母校に残った[3]。 学生時代には陸上競技選手として活躍。一高在学時、英米の陸上競技書を多数読んで練習に活かしたという[4]。東京帝国大学在学中は、東京帝国大学運動会で活躍、100m・200m・400mで優勝経験がある[2]。1911年(明治44年)11月に開催された国際オリムピック大会選手予選会に出場。200m走(25秒8)[5]、走幅跳(5.48m)[6]で優勝した。200mと走幅跳の記録は初代日本記録(日本学生記録でもある)とされる。100m走でも予選では優勝者の三島弥彦と並ぶ記録を出している。 1913年(大正2年)11月に開催された、大日本体育協会主催の第1回全国陸上競技大会(現在は第1回日本陸上競技選手権大会と位置付けられる大会)に参加し、100m走(12秒4)[7]、200m走(25秒2)[8][注釈 1]、110mハードル(17秒5)[9]の3種目で優勝。1914年(大正3年)に開催された第2回日本陸上競技選手権大会では100m走2連覇を達成(12秒1)。1915年(大正4年)10月21日には全国陸上男子走幅跳で日本記録(5m90)[6][注釈 2]。1915年(大正4年)には第2回極東選手権競技大会(上海)に短距離走の日本代表選手として参加[2]。 1916年(大正5年)5月10日、27歳の明石は明石製作所を創業した[1]。 1916年(大正5年)9月、金栗四三との共著で『ランニング』を発行。金栗が長距離走、明石が短距離・中距離走の練習法について執筆した[11][注釈 3]。 1917年(大正6年)に開催された日本初の駅伝競走大会「東海道駅伝徒歩競走」では、「選手選択委員」の一人として運営に当たった[13][14][注釈 4] 1925年(大正14年)には、第7回極東選手権競技大会(マニラ)に役員として参加[3]。 1928年(昭和3年)に精密工学会が設立されると副会長を務めた(会長は大河内正敏。なお、2代会長青木保のもとでも引き続き副会長)。 ゴルフにも傾倒し、1928年(昭和3年)には摂政杯[注釈 5]を獲得[3]。東京ゴルフ倶楽部に属する強豪ゴルファーとして知られた[2]。1935年(昭和10年)には山梨県の富士ゴルフコースの設計にあたっている[15]。 1933年(昭和8年)時点で、大日本体育協会や日本陸上競技連盟の評議員を務める[2]。1935年(昭和10年)頃に足の腱を切り、ランニングからは遠ざかったという[1]。 1940年(昭和15年)、紀元二千六百年式典に際して、多年の功績から勲六等単光旭日章を受章[1]。「産業人としては破格」という[16]。 1945年(昭和20年)2月、論文「支へ刃ノ負荷能力」で工学博士号を東京帝国大学より取得[17]。 1948年(昭和23年)に精密工学会第3代会長に就任するが、翌1949年(昭和24年)に退く。 1956年(昭和31年)5月6日、後楽園球場でプロ野球の試合を観戦中に倒れ、急死[3]。享年68。墓所は多磨霊園。 家族
おもな著作脚注注釈
出典
参考文献
外部リンク
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