松前 公広(まつまえ きんひろ、旧字体:松󠄁前󠄁 公󠄁廣)は、江戸時代前期の蝦夷地松前藩(正式には交代寄合)の第2代藩主。官位は従五位下志摩守。
生涯
慶長3年(1598年)、初代藩主・松前慶広の長男・松前盛広の長男として松前大館にて誕生。父・盛広が慶長13年(1608年)に早世したため、慶広の世子となる。慶長19年(1614年)に従五位下、志摩守に叙位・任官する。元和2年(1616年)、祖父・慶広が死去したため、元和3年(1617年)に家督を継いで2代藩主となった。
元和6年(1620年)、福山館の城下町を整備する。寛永10年(1633年)の幕府巡見使を契機に、寛永12年(1635年)、村上掃部左衛門に領内の地図を作らせた。商場を知行として家臣に分与する商場知行により家臣団を確立し、財政においては金山奉行を設置して砂金の採取にあたらせ、初期の藩政を助けた。公広はさらなる藩の政治経済の安定に従事したが、寛永14年(1637年)、火事のために福山館が焼失したうえに自身も火傷し、その政策は挫折してしまった。寛永16年(1639年)には、幕府のキリシタン取締りの命により、キリシタン106名を処刑した。
寛永18年(1641年)7月8日に死去。享年44。辞世は「来し道も 帰る道にも ただひとり のこる姿は 草の葉の露」。
家督は次男・氏広が継いだ。
人物
- 沢庵宗彭から仏道を、小幡景憲から軍学を学んだという。
- 文化人で、諸芸にも通じていたとされる。松前藩の藩政は、慶広と公広の時代に確立している。
系譜
父母
正室、継室
側室
子女
参考文献