松浦築枝
松浦 築枝(まつうら つきえ、1907年(明治40年)11月5日[1] - 1999年(平成11年)[2])は、日本の女優である。初期芸名は松浦 月枝(読み同)、出生名は大野 月枝(おおの-)、結婚後の本名は松田 月枝(まつだ-)である[1][2]。 来歴1907年(明治40年)11月5日、大韓帝国釜山(現在の大韓民国釜山広域市)に「大野月枝」として生まれる[1][2]。1910年(明治43年、同地は日本領となり朝鮮釜山府となった。 やがて松竹キネマの柳さく子に演技を学び[1]、京都の松竹キネマ下加茂撮影所に入社した[1]。 1925年(大正14年)5月、阪東妻三郎を筆頭に、等寺院の東亜キネマを抜け出た女優らがマキノ・プロダクション創設の報を聞き、マキノ映画上映舞台挨拶のため朝鮮に渡る。釜山についた阪東に、朝鮮でマキノ映画の配給をしていた櫻庭藤夫が「松浦を女優にしてくれ」と頼み、阪妻が了承[3]。 同年6月、マキノ・プロダクション御室撮影所が発足、阪妻の世話でこれに移籍[1][2]。同年、「松浦月枝」名義で二川文太郎監督の『乱刀 前篇』に出演した。 1926年(大正15年)、同社社長の牧野省三の指示で改名[2]、高見貞衛監督の『浪人地獄』から「松浦築枝」と名乗った[1]。 1930年(昭和5年)12月以降のマキノ・プロダクションの経営難に際して、名古屋あるいは東京・浅草で他の所属俳優たちとともに舞台で活動し、収益金を争議資金に充てた[2]。 1931年(昭和6年)には同社は製作停止せざるを得なくなり、最終的に解散となる。同年、新興キネマに移籍[1]。 1932年(昭和7年)1月、牧野省三の息子の一人である松田定次と結婚し[2]、同年、代表作となる山中貞雄監督の『磯の源太 抱寝の長脇差』に出演する[1]。同年2月設立された正映マキノキネマ、同年11月からは宝塚キネマ興行、1933年(昭和8年)には太秦発声映画、1934年(昭和9年)にはエトナ映画社へと移籍した[2]。 1935年(昭和10年)11月、マキノ正博がマキノトーキー製作所を設立すると、夫の松田とともに参加した[2]。 第二次世界大戦後は、マキノ光雄が経営陣にいる東横映画で活動。 1951年(昭和26年)、同社が他の2社と合併して東映が設立されると、東映京都撮影所の専属女優となった[2]。 1965年(昭和40年)、引退[2]。 人物・エピソード1929年(昭和4年)当時の雑誌記事によれば、当時の身長は「5尺1寸」(154.5センチ)、体重は「11貫400匁」(42.75キロ)、京都市外花園村(現在の市内右京区花園)在住とあった[4]。 おもなフィルモグラフィ
註外部リンク
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