植草貞夫
植草 貞夫(うえくさ さだお、1932年9月29日 - )は、日本のアナウンサー。元・朝日放送(ABC)アナウンサー[1]で、同社からの定年退職(1992年)後も、個人事務所の(植草貞夫事務所・オフィスSARAH)代表を務めながら、フリーアナウンサーやスポーツコメンテーターとして2010年代の初頭まで活動していた。 来歴・人物東京府東京市の出身で、東京都立墨田川高等学校から早稲田大学へ進学。大学卒業後の1955年に、アナウンサーとして朝日放送に入社した。入社時点の朝日放送はラジオ単営局であったが、テレビ単営局の大阪テレビ放送との合併によって、入社直後の6月1日付でテレビとの兼営局として再スタートを切った。朝日放送アナウンサーとしての同期に田村安起と矢代清二、他の職種で採用されていた同期の社員に山内久司と澤田隆治と槇洋介などがいる。 朝日放送では、テレビ・ラジオともスポーツ中継の実況を長らく担当。若手アナウンサー時代に大相撲(例年3月に大阪で開催される春場所)の取組中継で「制限時間中に静寂を保ったうえで立合いから言葉を一気に畳みかける」という実況のスタイルを確立していたこと[2]を背景に、全国高等学校野球選手権大会の実況中継で数々の名言を残している。特に決勝戦では、ミュンヘンオリンピックの民放共同制作体(現・ジャパンコンソーシアム) へ派遣された関係で開会式から3回戦までしか担当できなかった1972年を除いて、1960年(ラジオ)から1988年(テレビ)まで延べ28年にわたって実況を務めた。1976年には、JNN・JRN系列局所属の優秀なアナウンサーに贈られるアノンシスト賞で、第2回のグランダ・プレミオ(年間大賞)を受賞している。 日本シリーズでは、1985年の阪神タイガース対西武ライオンズ戦(阪神甲子園球場での第4戦)において、テレビ朝日系列向けの全国中継で実況を担当。その他にも、テレビで『おはよう朝日です 土曜日です』のスポーツキャスター、ラジオで『ナイター一番乗り』(プロ野球シーズン)、『草やん悠さんのがんばれタイガース』『植草貞夫のプロ野球スニーカー』『貞夫・雅人のスポーツタイム』(いずれもプロ野球オフシーズン)などのパーソナリティを務めていた。 オリンピック中継では、前述のミュンヘン大会のほかに、1964年の東京オリンピックでも民放選抜のアナウンサーとして実況を担当。陸上男子100mの実況では、「黒い弾丸! ボブ・ヘイズ!」と表現しながら、ヘイズの金メダル獲得の瞬間を伝えた。 朝日放送を1992年に定年で退職してからも、同局の専属キャスターとして、1998年まで全国高等学校野球選手権大会中継の実況を継続[3]。朝日放送との専属契約期間を満了してからは、フリーアナウンサーとして、全国高等学校野球選手権地方大会中継の実況を岐阜放送などで担当した。また、1994年から2008年までの14年間にわたって、サンテレビで冠番組『植草貞夫のゴルフ交遊録』のホストを担当。阪神タイガースの選手・OBなどとゴルフのラウンドを回るかたわら、アナウンサーとしての経験を基にさまざまな話を聞いていた。さらに、2007年10月1日から半年間にわたって、ラジオ関西で『植草貞夫の青い空・白い雲』のパーソナリティを担当。高校野球やタイガースの話題でスポーツ番組・雑誌に「コメンテーター」として登場したほか、全国各地で講演活動を展開していた。 2010年から2012年まで日本女子プロ野球公式戦の場内実況を担当していたが、アナウンサーとしては2013年頃に引退[4]。2019年に階段で足を捻った影響で骨折して[5]からは車椅子での生活を余儀なくされていて、2022年からは神戸市内の老人ホームで暮らしている[6]。その一方で、2023年には『熱闘甲子園』(朝日放送→朝日放送テレビとテレビ朝日の共同制作による全国高等学校野球選手権大会のダイジェスト番組)のPR動画に登場[7]。この動画では、「朝日放送のアナウンサー時代に阪神甲子園球場の放送席で大会の実況に臨む姿が写っているアーカイブ映像に、車椅子姿での近影を収めた肉声入りの新録映像を組み合わせる」という演出が施されていた。 また、2023年11月17日に三才ブックスから発売された『ABCラジオ本』(朝日放送ラジオの公式書籍)の第2章「野球実況の深淵がここに!」には、同年に植草が91歳で臨んだ伊藤史隆・中邨雄二(いずれも朝日放送テレビのシニアアナウンサー)との鼎談が収められている。伊藤・中邨は1985年に朝日放送(旧法人)へ入社した後に、1987年から(60歳の定年をはさんで)プロ野球・高校野球の中継で実況を担当しているが、この鼎談では2人とも植草との接点がほとんどなかったことが明かされている。ちなみに、2人が入社した1985年度時点での植草の肩書は「朝日放送スポーツ局次長プロデューサー兼アナウンス部員」で、本人によれば「植草を探すには甲子園(球場)かゴルフ場」と呼ばれるほどアナウンス部にほとんど姿を見せていなかったという[8]。 家族・親族朝日放送のアナウンサーだった妻(1998年に死去)との間に3男1女を授かっているが、長女を生後75日で亡くしている[9]。 長男の結樹は長崎放送 → テレビ大阪、三男の朋樹はRKB毎日放送 → テレビ東京で、貞夫と同様にスポーツアナウンサーとして長らく活躍。2021年開催の2020東京オリンピックでは、朋樹がテレビ中継の実況要員としてテレビ東京からジャパンコンソーシアムへ派遣されたため、日本の放送局に勤務するアナウンサーとしては初めて「親子2代にわたる東京オリンピック中継の実況」に至った[10]。また、結樹がテレビ大阪・朋樹がテレビ東京へ移籍してからは、テレビ東京系列のプロ野球中継で「兄弟共演」が何度も実現している。 二男の裕樹はPL学園高校硬式野球部のOBで、実父が代表を務める「アノンシスト企画」[11]→オフィスSARAH(植草貞夫事務所)の代表取締役だった。 孫(結樹の息子)は沖縄テレビアナウンサーの植草凛[12]とRKB毎日放送アナウンサーの植草峻で、2人ともスポーツ中継を担当している。 高校野球テレビ中継での実況における名言集
といった様々な名言を残し、高校野球ファンの支持を集めた。彼が44年間のなかで実況できなかった大物選手といえば江川卓と松坂大輔ぐらいである。 また、第74回大会・星稜(石川) VS 明徳義塾(高知)戦の中継では、「(当時の)高校球界屈指の強打者」と目されていた松井秀喜(星稜の4番打者)が馬淵史郎(明徳監督)の「作戦」によって全打席(5打席連続)で敬遠四球を受けたシーンを「勝負(は)しません!」という一言で伝えた[13]。この中継では松岡英孝(元・北陽高校監督)を「お客様」(解説役)に迎えていたが、高知県出身の松岡が「高知の野球はこんなんちゃう(同じ打者との勝負を立て続けに敬遠するようなものではない)。(明徳の投手はどうか松井と)勝負して欲しい」という本音を繰り返し口にしていたのに対して、植草は第三者の立場からの実況に徹していた。ちなみに伊藤は、朝日放送(テレビ)社内のアナウンサー研修で講師を務めた際に、このシーンを収録した映像を「教材」に使用。一方の植草は、伊藤・中邨との鼎談へ臨んだ際に、「(馬淵の作戦に対して個人的に)言いたいことはいっぱいあったが、実際に(その作戦に沿って松井と)勝負していない以上、『勝負はしません!』としか言い様がなかった」と告白している[14]。 このような「名言」の下地は、若手アナウンサー時代に大相撲中継で培った実況のスタイル(前述)にある。植草が朝日放送の高校野球中継で実況を担当していた時期には、(同社が所在する)関西より西の地方の放送局に勤務するアナウンサーがスポーツ中継で実況へ臨む際に、植草のスタイルをこぞって踏襲していたという。その一方で、サッカーやバレーボールの中継では、植草が実況の担当を中村哲夫(3歳年下のスポーツアナウンサー)に譲ることが多かった。現に、植草は中村が2015年に永眠してから、「自分は大上段に振りかぶって実況するタイプで、『野球の実況では哲ちゃん(中村)に負けない』という自信もあった。哲ちゃんは目の前で起きていることを淡々と正確に実況するタイプだったので、サッカーやバレーボールの実況については、『(中村に)勝てない』との思いから担当をあえて避けていた」と述懐している[15]。 尾藤公(元・箕島高校監督)を「お客様」に迎えた1998年の第80回記念大会3回戦第1試合(8月19日・大会14日目)の智弁和歌山(和歌山) VS 豊田大谷(東愛知)戦テレビ中継をもって、朝日放送制作の(プロ野球を含む)野球中継の実況から引退。「残念ながら今日は見ることは出来ませんでしたが、『青い空・白い雲』を私の心の中にしまって44年間の実況を終了したいと思います。ありがとうございました」というコメントで実況生活を締めくくった。本人は「この大会で最後に実況を担当する試合を『野球アナウンサーとしての決勝戦』と位置付けていた」とのことだが、後に『朝日新聞』からの取材を受けた際に、大会の前に妻を亡くしたことが引退のきっかけになったことを明かしている[13]。 阪神タイガースとのかかわり朝日放送がプロ野球では阪神タイガースの試合を多く中継したことから、阪神タイガース戦に欠かせないアナウンサーの一人としても有名であった。 1962年セ・パ2リーグ制後、初めて優勝を決めた試合ではテレビで実況を務めたが、1964年の2度目の優勝時は、前述の東京五輪実況に携わったため、五輪開催間際と重なり、実況できなかった。 1973年10月22日に甲子園球場で行われた、「勝った方が優勝」という阪神タイガース対読売ジャイアンツ戦のシーズン最終戦でテレビの実況[16]を担当したが、阪神の惨敗ぶりに7回あたりから放送席にまで暴徒と化した観衆がものを投げ込んだりするようになり(植草によるとほうきまで飛んできたという)、「ABCは勘弁したろか」という周囲の心あるファンが毛布などでバリケードを作ってくれたおかげでかろうじて放送できたエピソードがある[17]。 →「おはようパーソナリティ中村鋭一です § エピソード」、および「阪神タイガース § 世紀の落球とV9」も参照
その後、長らく阪神が優勝から遠ざかった時代には「架空優勝実況」をいくつか吹き込んでいる。こうした架空実況は当時評論家で、キー局・テレビ朝日の解説者だった野村克也から批判されたりもして、本人も「本当の優勝実況が一番です」と語っていた。 1985年4月17日の甲子園球場での読売ジャイアンツ戦での伝説の「バックスクリーン3連発 (ランディ・バース、掛布雅之、岡田彰布) の実況を担当していた。3選手のホームランの際、バースの時は「センターへ持ってったぁー! センターが下がった、下がったぁ、下がったぁーー! 逆てぇーん!! 今シーズンの第1号はバース、逆転3ラン!! センターのバックスクリーンに飛んでいきました! バースは狙っていたのか、無心にセンターにはじき返したのか、一発に泣いた槙原!」、掛布の時は「こぉーれもセンターだ! クロマティはー、追わないっ! 昨日に続いて(今シーズン)第2号! バース、掛布爆発! 甲子園球場は大歓声! いやぁ、嬉しそう、嬉しそう」、岡田の時は「センターへ! こぉーれも行くのか? こぉーれも行くのか? こぉーれも行ったー! 今シーズンの第1号! 甲子園球場はもうお祭りです、甲子園はお祭りです!! そして、三塁側のスタンドから空き缶が投げられています!」と実況している。解説は藤田平。 そして、1985年10月16日、21年ぶりの優勝を決めたヤクルトスワローズ対阪神タイガース戦の実況(ラジオ)を担当し、1962年以来の優勝実況が実現した。優勝の瞬間の言葉をいろいろ考えていたが、結局出てきたのは「1985年度ペナントレース、阪神タイガースが制しました」という、アナウンサーらしい冷静な言葉であった。なお日本一を決めた11月2日の西武ライオンズ戦(西武ライオンズ球場)はテレビ・ラジオとも放映権の都合上実況できなかった。 阪神のバッターがいい打球をかっ飛ばすと「さぁー」や「こぉーれもいくのかぁー?」と絶叫することが多かった。 一方、阪神ファンの応援の代名詞であるジェット風船については、実況の中で「(試合中に)こういうのを飛ばされると、試合進行の妨げとなるので、是非とも止めて頂きたい」と批判的なコメントをしたことがある。 出演番組ラジオ番組
著書レコード・カセットテープ
関連項目・人物ABC関係
その他の人物
脚注出典
外部リンクInformation related to 植草貞夫 |