楢﨑正剛
楢﨑 正剛(ならざき せいごう、1976年4月15日 - )は、奈良県香芝市出身の元プロサッカー選手、サッカー指導者。現役時代のポジションはゴールキーパー(GK)。元日本代表。 FIFAワールドカップに4大会連続で選出された。史上初のJリーグ公式戦100完封達成者。 2010年にJリーグMVPをゴールキーパー史上初めて獲得[2]。 来歴アマチュア母の実家がある徳島県で誕生[3]。小学3年生まで大阪府内で育つ。学生野球をしていた父親の影響で、幼少期は野球をしていた。小学校4年生の時に奈良県へ引っ越し、三和スポーツ少年団にてサッカーを始める。当時から身長が高く、サッカーを始めた当初からGKとしてプレーしていた。中学時代は奈良選抜や関西選抜にも選出された。香芝市立香芝中学校卒業後に奈良育英高校へ入学し、全国高等学校サッカー選手権大会でベスト4に進出した。同期のチームメイトにフットサル日本代表の藤井健太がいる。 クラブ奈良育英高校卒業後1995年に横浜フリューゲルスに加入し、長期出場停止処分を受けた森敦彦に代わって新人ながら正GKとして出場した[4]。1996年は開幕から6試合連続無失点のJリーグ記録を樹立し、クラブとしても開幕8連勝を果たすなど上位進出に貢献した(最終順位は3位)。同年の活躍によりJリーグベストイレブンに初選出された。1998年シーズン限りでのクラブ消滅が決まった後、元日の天皇杯優勝で有終の美を飾り、1999年に山口素弘、そしてGKコーチのマザロッピと共に名古屋グランパスエイトへ移籍した。名古屋でも移籍一年目からそれまで正GKを務めていた伊藤裕二からポジションを奪い、2000年からは2013年まで14シーズン連続でキャプテンを務めるなどチームの中心選手として活躍。2009年7月25日の対浦和レッズ戦(埼玉スタジアム2002)にて、史上初の「Jリーグ公式戦100完封」を達成した。 2010年シーズンは、初のJリーグ優勝を経験し、GK初のJリーグMVPに輝いた。 2012年11月17日の対ジュビロ磐田戦 (ヤマハスタジアム) で史上2人目のJ1通算500試合出場を達成した。また、2013年5月6日の対ベガルタ仙台戦 (豊田スタジアム) でJ1通算512試合出場を達成、伊東輝悦が持っていたJ1最多出場記録を更新した。 2013年から2015年シーズンは、リーグ戦34試合に全て出場した。 2016年シーズンは、怪我もありリーグ戦27試合の出場となり、チームも低調な成績で自身初のJ2降格を経験した[5]。 2017年シーズンもレギュラーとしてプレーするも、終盤に武田洋平にポジションを奪われ、J1昇格を決めたJ1昇格プレーオフでも武田にポジションを譲る形になった[6]。 2018年シーズンは、オーストラリア代表のランゲラックの加入もあり、プロ入り後初めて公式戦無出場に終わった。12月2日に行われた2018年限りで引退するライバルであった川口能活の引退セレモニーにサプライズで登場し、その際に川口から「まだ、続けてください。僕の分も頑張ってください」と引退を視野に入れていた楢崎に言葉を掛けた[7]。しかし、2019年1月8日に引退を発表[8]。奇しくも川口と同じ年にユニフォームを脱ぐことになった[9]。3月2日に名古屋とC大阪の試合前に行われた引退セレモニーでは、川口がサプライズで花束を持って登場した[10]。またセレモニー後、場内を一周した際には、セレッソ大阪ゴール裏サポーターからも声援と大きな拍手を受けた[11]。試合後は選手たちによって胴上げされた[12]。 引退後2019年2月15日に名古屋グランパスで、Jクラブ初のCSF(クラブスペシャルフェロー)として活動する事を発表した[13]。CSFについて公式サイトでは、「『日本のGKがさらに世界で認められる手助けをし、日本のサッカー界の発展に貢献したい』という楢崎氏の想いに弊クラブが賛同し新設した役職。後進のGK育成のために、国内外の指導・育成現場の視察などの活動を通し、日本のGKのレベルアップに貢献できる取り組みについて検討、併せて、グランパスの渉外・広報活動、ホームタウン活動にも従事する」と綴られている[14]。 2019年10月24日に開催されたJリーグ理事会において同年開催のJリーグアウォーズでJリーグ功労選手賞の授与が決定した[15]。 2020年には名古屋グランパスにて、上記の「クラブスペシャルフェロー」に加え「アカデミーダイレクター補佐」および「アカデミーGKコーチ」を兼任することとなった[16]。 2021年2月18日、日本サッカー協会によるオンライン理事会の承認により、2021年度のJFAトレセンコーチに就任。全国各地域で有望な若手GKを育成していくと発表された。名古屋グランパスの「クラブスペシャルフェロー」、「アカデミーダイレクター補佐」、「アカデミーGKコーチ」とも引き続き兼任となった[17]。 日本代表日本代表には1996年に初選出され、1998年2月15日のオーストラリア戦で国際Aマッチ初出場を果たした[1]。日本のワールドカップ初出場となった1998年フランス大会メンバーに初選出されるが出場機会は無かった。 フランス大会後、代表監督に就任したフィリップ・トルシエの下で出場機会を増やし、2002年日韓大会では川口能活に代わって正GKを務め、4試合全てに出場する。日本代表史上ワールドカップでの初勝ち点、初勝利(完封勝利)、初の決勝トーナメント進出に貢献した。また、この間2000年シドニーオリンピック代表にも森岡隆三、三浦淳宏と共にオーバーエイジ枠で選出され全試合に出場した。 日韓大会後のジーコの代表監督就任後も代表の正GKを務め、2003年10月8日の親善試合チュニジア戦から2004年2月18日のドイツW杯アジア1次予選グループ3第1戦オマーン戦まで、7試合無失点という日本代表連続無失点記録を作った[18]。しかし、怪我で出場できなかったアジアカップにおいて楢﨑の代わりに川口が活躍し、大会後は出場機会が減り、2006年ドイツ大会では出場機会はなかった。 ドイツ大会後に代表監督に就任したイビチャ・オシムからは暫く招集を見送られていたが、クラブでの好調さを評価され2007年のキリンカップのメンバーに招集され、モンテネグロ戦で24試合ぶりの先発出場を果たした。2008年のワールドカップアジア3次予選途中からは約5年振りとなる代表レギュラーとしてプレーした。 しかし2010年南アフリカ大会直前の練習試合においては、高地適用で遅れたために[19] スタメンを川島永嗣が務め、本大会でも出場機会は得られなかった。楢崎本人は日本に帰国してから、エル・ゴラッソの取材に「高山病はガセネタ。毎日練習していたし、高地にも普通に順化できた」と話している[20]。 フル代表では、10年以上にわたり、楢崎と川口の二頭体制が続いた。川口が初先発した1997年2月13日のスウェーデン戦から、南アフリカワールドカップ直前で、楢崎がスタメン落ちする前の試合である2010年5月23日の韓国戦まで、2人のどちらかが先発した国際Aマッチは合計192試合に及ぶ(楢崎76試合、川口116試合)。この間に、2人以外のGKが先発した国際Aマッチは僅か24試合しか無い。 2010年9月7日、グアテマラ戦(長居スタジアム)に先発フル出場(国際Aマッチ77試合目)。その後の記者会見で日本代表からの引退を表明した[21]。 国際Aマッチ7試合連続無失点という日本記録を持っていたが[18]、2021年3月に権田修一によって更新された[22]。 人物・エピソード
所属クラブ
個人成績
その他の国内公式戦
その他の国際試合
代表歴出場大会など
試合数
出場
指導歴
タイトルクラブ
個人
出演CM
映画
脚注
著書
関連項目外部リンク
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