横田氏(よこたし)
横田氏 (下野国)
横田氏は、日本の氏族。
下野国の横田郷に宇都宮頼綱の子・頼業が移住し興った。頼業は承久の乱で功績を挙げる一方で、和歌にも通じた文武両道の名将であった。以後も代々宇都宮氏を支え活躍したが、宇都宮国綱の代に下野宇都宮氏が改易となると横田氏も運命を共にすることになる。
横田氏の庶流には今泉氏があり、宇都宮氏の内紛の当事者の一人である今泉高光はその出身である。
系譜
- 実線は実子、点線(縦)は養子、点線(横)は婚姻関係。
- ^ 宇都宮時綱の子。
- ^ 武茂時景の子。
- ^ 泰朝の弟。
甲斐武田氏家臣の横田氏
甲斐武田氏家臣には、足軽大将・横田高松(備中守)の一族の横田氏がいる。近江国甲賀郡横田の地より興ったと伝わり、本姓は佐々木氏とする。通字は「松(とし)」。
『甲陽軍鑑』によれば、横田高松が伊勢国出身の浪人衆で、天文16年(1547年)8月には信濃国佐久郡の志賀城(長野県佐久市)攻めで活躍し、『勝山記』によれば、山内上杉家との小田井原の戦いでも活躍している。天文19年(1550年)8月25日には信濃小県郡の村上義清の拠点である戸石城(長野県上田市)を攻めるが敗退し、村上勢の追撃を受けて高松は戦死する。
高松には実子がなく、足軽大将・原虎胤の子・彦十郎(横田康景、十郎兵衛尉)を養子とする。康景は天正3年(1575年)5月21日の長篠の戦いにおいて戦死する。
康景には嫡男の彦九郎がいたが元亀3年(1572年)12月22日の三方ヶ原の戦いで戦死しており、康景の子うち小才次・小陸奥・源介も長篠合戦で死去している。このため、横田氏の家督は康景の子・甚五郎(尹松)が継承し、武田氏の滅亡後に徳川家康に仕官し旗本として存続した。横田氏は旗本としては最高の禄高9500石を誇った。
幕末維新期の当主横田栄松は王政復古に際して朝廷に早期帰順したことで本領安堵され、朝臣に転じて下大夫席に列した。華族に滑り込むことを狙い、家禄が高直しで万石以上に達したとして明治元年(1868年)11月から明治2年(1869年)12月にかけて4度にわたって諸侯昇格願いを提出しているが、4度とも不許可に終わり、士族編入となった。
脚注
参考文献
- 系譜参考
関連項目
外部リンク