武田氏(たけだし)は、武家・士族だった日本の氏族。清和源氏の一流・河内源氏の一門源義光を始祖とする甲斐源氏の宗家であり、平安時代末から戦国時代にかけて栄えた。鎌倉幕府の有力御家人、室町幕府の守護大名を経て、戦国時代には戦国大名化し、武田晴信(信玄)の代に中部地方に大きく領土を広げたが、勝頼の代の1582年に織田信長により滅ぼされた[2]。江戸時代には庶家だけがわずかに残り、維新後には士族となった。
安芸国・若狭国に分流が存在し、上総国などにも庶流があったが、いずれも通字として「信」(のぶ)が使用されている。古代の国造である武田臣(皇別)の後裔が河内源氏義光流の棟梁と婚姻したという説も伝わっている[1]。家宝は御旗(後冷泉天皇から下賜された日章旗)・楯無(楯無の鎧、源頼義が御旗とともに授けられたという)。
始祖源義光から甲斐国土着
武田氏の祖は、後世の当主からは河内国壷井(現・大阪府羽曳野市壷井)を本拠地とした河内源氏の棟梁・源頼義の三男の源義光(新羅三郎義光)と位置づけられている。河内源氏を称した源頼信は1029年(長元2年)に甲斐守に任官し、頼義から義光と継承される。頼義までは在京で現地へは赴いていないと考えられているが、義光は初めて甲斐へ着任し土着した人物とも言われ、山梨県北杜市須玉町若神子の若神子城は義光の在所であったとする伝承がある。1981年(昭和56年)の発掘調査では出土遺物が確認されるものの義光の在所とする確定的な証拠は発見されず、また古代甲斐における国衙が八代郡であることからも義光の入国は疑問視する声もある。また、甲斐守任官についても否定的意見がある(秋山敬による)。
現在では、志田諄一が1968年(昭和43年)に『勝田市史』において提唱した、義光の子である源義清(武田冠者)が常陸国那珂郡武田郷(現・茨城県ひたちなか市武田)を本貫として武田姓を名乗ったのが発祥とする説が、定説として支持されている。1130年(大治5年)に義清の嫡男の清光の狼藉行為が原因で父子は常陸を追放され、甲斐国巨摩郡市河荘(現在の山梨県西八代郡市川三郷町)へ配流されたという。他の配流先は現在の山梨県中巨摩郡昭和町西条あたりなどの説もある。
義清父子は八ヶ岳山麓の逸見荘へ進出し、清光は逸見(へみ)姓(逸見冠者)を名乗る。その後、義清の孫にあたる信義は元服の際に武田八幡宮において祖父の義清の武田姓に復し、甲斐国巨摩郡武田(現在の山梨県韮崎市一帯)[1]を本拠地としたことから、その後に続く武田氏の初代とされる。
信義は、鎌倉時代には御家人となって駿河守護に任命され、その子の信光は甲斐・安芸守護にも任ぜられ、武田氏が甲斐・安芸で繁栄する基礎を築いた。
甲斐武田氏
治承・寿永の乱における活動
甲斐武田氏は、清和源氏の河内源氏系甲斐源氏の宗家である。4代武田信義(源信義)は治承4年(1180年)4月に以仁王から令旨を受け取ると、甲斐源氏の一族を率いて挙兵する。甲斐源氏は、治承4年10月20日の富士川の戦いにおいて主力となってこれに勝利し、伊豆の源頼朝から武田信義が駿河守護に、安田義定が遠江守護に補任された(『吾妻鏡』)。治承・寿永の乱において、甲斐源氏の一族は『吾妻鏡』以外の記録史料を総合すると頼朝の傘下ではなく独自の勢力であったと考えられ、この補任は、敗走する平家方を追討した信義・義定らが駿遠地方を占拠した後、甲斐源氏の戦功を頼朝が追認したものであると考えられる[4]。
その後、その勢力を警戒した頼朝から粛清を受けて信義は失脚し、弟や息子たちの多くが死に追いやられた。信義の五男の信光だけは頼朝から知遇を得て甲斐守護に任ぜられ、韮崎にて武田氏嫡流となる。信光は承久3年(1221年)の承久の乱でも戦功を上げ、安芸守護職に任ぜられ、安芸武田氏の祖となる。信光の息子である信政の子の代に2つに分かれ、政綱が甲斐を、信時が安芸を継承した。
鎌倉時代
鎌倉時代後期には、武田氏に代わり二階堂氏が甲斐守護として確認される。その後、石和流武田氏の政義が甲斐守護となっている。政義は元弘元年(1331年)後醍醐天皇が挙兵した元弘の乱において幕軍に従い笠置山を攻めているが、後に倒幕側に加わり幕府滅亡後は建武の新政に参加している。1335年(建武2年)に北条時行らが起した中先代の乱にも参加する。
南北朝時代・室町時代
その後南北朝時代には安芸守護であった信時流武田氏の武田信武が、北朝の足利尊氏に属して各地で戦功をあげ、観応年間には南朝方の政義を排して甲斐国守護となった。信武の子孫の信成[※ 1]・信春も甲斐守護を継承したと見られているが、異論も存在する(詳細は安芸武田家の記事を参照のこと)。
信武の子の代で武田氏惣領家は3家に分かれた。甲斐武田家・安芸武田家・京都武田家がそれである。
甲斐国は鎌倉府の管轄であったが、室町時代の応永23年(1416年)に鎌倉府で関東管領の上杉氏憲(禅秀)が鎌倉公方の足利持氏に反旗を翻し、上杉禅秀の乱が発生する。武田信春の子である武田信満は甲斐守護を継承しており、信満は女婿にあたる禅秀に味方したが、幕府の介入で禅秀は滅亡し、信満は鎌倉府から討伐を受けて自害する。
これにより甲斐は守護不在状態となり、甲斐国人である逸見氏が鎌倉公方・足利持氏の支持を得て守護職を求め台頭した。一方、室町幕府では高野山で出家した信満の弟である武田信元を還俗させ、信濃守護・小笠原氏などに助力させ甲斐へ派遣する。第6代将軍・足利義教の頃には永享の乱で鎌倉府が衰亡し、信元の死後に信満の子の武田信重が同じく幕府の支援を受け甲斐へ派遣されると、結城合戦で功績を挙げ再興のきっかけをつかんだ。
戦国時代
信重の復帰以降も国内の有力国人や守護代である跡部氏の専横や一族の内紛、周辺地域からの侵攻に悩まされたが、16代信昌の時には跡部氏を排斥して家臣団の統制を行い国内を安定化に向かわせるが、後継者を巡り内乱となる。
18代信虎の頃には国内はほぼ統一され、甲府に躑躅ヶ崎館を建設した。更に積極的に隣国である信濃国に侵攻して家勢を拡大し、19代晴信(武田信玄)の時には大名権力により治水や金山開発など領国整備を行い、信濃に領国を拡大した。信玄は隣国の今川氏、北条氏と同盟を結んで後顧の憂いをなくして信濃侵攻を進め、北信濃地域の領有を巡って越後の長尾景虎(上杉謙信)と衝突した(川中島の戦い)。今川氏が衰退した後は、嫡男の義信を切腹に追い込んだのち(義信事件)同盟を破棄して駿河国へ侵攻した。
1572年(元亀3年)、徳川家康との戦いのために西上作戦を開始するが、途中室町幕府第15代将軍・足利義昭の要請に応じて上洛戦に転じる。だが、直後に信玄が病死したため、武田軍は甲斐国に撤退した。最盛期には甲斐国・信濃国・駿河国および上野国・遠江国・三河国・美濃国・飛騨国・越中国の一部の計9カ国に及ぶ120万石の領土を有した。武田勝頼の代になると美濃に進出して領土をさらに拡大する一方、次第に家中を掌握しきれなくなり、1575年(天正3年)長篠の戦いに敗北、信玄時代からの重臣を失うと一挙に衰退し、1582年(天正10年)織田信長に攻め込まれて勝頼の後を継いだ信勝ともども滅亡した(天目山の戦い)。徳川家康の計らいで最初は武田家臣の穴山信治(武田信治)に継がせ、のち家康自身の五男の福松丸に武田信吉と名乗らせ、家督を継がせたが、断絶した。
江戸時代
天目山の戦いの後、信玄の次男の竜芳(海野信親)の子の信道は織田氏による残党狩りから逃れた。その後、信道は大久保長安事件に巻き込まれて伊豆大島へ流されたが、その子の信正の代で許されて1700年(元禄13年)に幕臣となり高家として仕えた。ただし、この家系は、江戸時代に武田信安の養子として信明、明治時代に同根の柳澤氏からとはいえ他家から養子を迎えて家督を継承しているので、信玄の血を保っているわけではない。幕末時の高家武田家の家禄は500石だった。幕末維新時の当主武田崇信は安政4年(1857年)から奥高家に列していたが、他の高家と同様に早々に朝廷に帰順して領地を安堵され、幕臣から朝臣に転じて中大夫席を与えられた。
この高家の武田家以外にも系譜があり、信玄の五男の仁科盛信の長男の信基と次男の信貞が徳川旗本として仕え、2系とも現在まで系譜が残っている(信貞は武田に復姓している)。信玄の七男の安田信清は姉婿である上杉景勝のもとへ逃れ、のちに武田姓に復して代々同家に仕え男系は絶えたものの女系で現在も存続している。信玄の弟の河窪信実の子の信俊は家康に旗本として仕え、これものちに武田姓に復している。
また信玄嫡男の義信の子で、秤座・吉川守隨家を継いだ守隨信義の系譜も1943年までは存在した。[5]
明治以降
明治維新後上記の武田氏はいずれも士族に編入された。高家武田家の当主だった武田崇信は明治7年(1874年)に死去し、養子(遠山景高の五男)である武田信任が同家を継いだ。
明治17年(1884年)の華族令で華族が五爵制になった際に定められた『叙爵内規』の前の案である『華族令』案や『叙爵規則』案では高家が交代寄合とともに男爵に含まれており、旧高家の武田家も男爵位を授けられるべき家に挙げられているが、最終的な『叙爵内規』では高家も交代寄合も叙爵対象外となったので結局士族のままだった。
1915年(大正4年)、大正天皇御大典を機に信玄が従三位に叙せられた際、当時の当主武田信保に信玄に対する位記宣命が渡された。以後、この家系が信玄に最も近い正統とされ、現当主武田英信へ受け継がれて現在に至っている。
系譜
※点線は養子
甲斐武田氏の主な側近(信玄・勝頼時代)
武田氏は、戦国大名家の家臣団に関する軍制や所領の実態が記された軍役帳や所領役帳などの基礎史料を欠いているため、家臣団の実態を知ることは難しい。江戸時代に記された軍記物である『甲陽軍鑑』には晴信(信玄)晩年期・勝頼期に関し家臣団の詳細が記され、江戸期以来の流行により一般においても広く知られてはいる。『軍鑑』は明治期の史学会において田中義成により史料性を否定され、長く実証的研究においては用いられてこなかったが、近年は酒井憲二による国語学的研究が行われて再評価され、史料性の再検討がなされている。
領内の城
武田氏研究
甲斐武田氏では近世に軍記物である『甲陽軍鑑』が成立し、武田信玄の存在を中心に広く知名度があり、江戸時代から近代にかけて地元においても郷土の象徴的人物と位置づけられていった。明治期には郷土史家により信玄を勤皇家や郷土の英雄として信玄像を位置づけることを目的とする研究や、戦史中心の研究が行われていた。また、大正・昭和初期には県内の実業家や名望家を中心に郷土研究が流行し、『甲斐史料集成』や『甲斐叢書』などの史料刊行も行われ、山梨郷土研究会も発足し実証的研究がスタートした。
戦後には昭和30年代から研究が活発化し、奥野高広や磯貝正義・上野晴朗らがそれぞれ実証的信玄評伝を発表した。資料的制約から研究は信玄・勝頼期が中心となっているが、前代の信虎期や後代の勝頼期へも視点が向けられ、三代期以前においても『吾妻鏡』の史料批判による鎌倉時代の甲斐源氏や武田氏に関する研究や、上杉禅秀の乱を契機とする甲斐国の動向に着目した南北朝・室町期の研究も行われている。
戦後には武田氏関係文書の新発見や文書編纂も進み(後述)、『軍鑑』や近世の総合地誌である『甲斐国志』など史料刊行も行われ、『勝山記』など新史料も発見された。1987年(昭和62年)には武田氏研究会が発足し現在に至るまで武田氏研究の中心的存在となっている。一方、考古学の分野では山梨県埋蔵文化財センターや県内外の市町村教育委員会などによる発掘調査が進展し、武田氏館跡や勝沼氏館跡など武田氏に関係する考古遺跡における発掘や、中世考古学の進捗により発見が相次ぎ、史跡整備も進んでいる。また、2005年(平成17年)には山梨県立博物館が開館し、武田氏に関する資料の収集や調査研究、展示活動を行っている。
現在では社会経済史的視点からの研究や戦国大名武田氏の権力構造の解明、家臣団の個別研究のほか、財政や治水事業、軍事や外交、交通や都市問題、商職人支配や郷村支配、宗教、美術など細分化した分野における実証的研究や民俗学的アプローチなど研究の地平が広っている[6]。一方で、網野善彦はこうした武田氏や甲斐源氏中心の研究に対して甲斐中世史において他氏族の果たした役割を強調し、武田氏以外の氏族研究の必要性を主張している[7]。
武田氏関係文書
また、武田氏研究と平行して武田氏関係文書の編纂も行われている。武田氏は宗家が滅亡しているため家伝文書が散逸しており写本や影印本のみで知られるものも多いが、現在では3300点余りの文書が知られている。古くは江戸時代に幕府が編纂した『諸州古文書』において甲斐の古文書調査が行われており、甲斐国の総合地誌として編纂された『甲斐国志』では武田氏関係の記述は『軍鑑』がベースとなっているものの編纂に伴う古文書調査が行われており、これらに収録されている文書には現在原本が確認できないものも多く含まれている。
実証的な武田氏研究が本格化した昭和戦後期には武田氏関係文書集の刊行も行われ、1966年(昭和41年)には『甲府市史』の編纂に際して『甲府市史史料目録』に「甲斐武田氏文書目録」が含まれ、1969年(昭和44年)には荻野三七彦・柴辻俊六により『新編甲州古文書』が刊行された。その後も新出文書の増加や無年号文書の検討作業が進捗し、『山梨県史』編纂事業のスタートに伴い総合的な史料調査が行われ、現在では柴辻俊六・黒田基樹『戦国遺文』武田氏編や、家別に編纂した『山梨県史』資料編中世において文書が集成されている。
武田氏関係文書の特徴として、文書の多くは戦国期に武田氏の拡大領国が確立した信玄・勝頼期に集中し、信虎期以前のものが極端に少なく、信玄・勝頼期でも当主以外の武田一族の文書や家臣団関係の文書、在地支配に関する文書は少ない。武田家では最低でも3人の右筆の存在が確認されているほか[8]、信玄文書は墨の濃淡が極端である特徴をもつことが指摘される。武田氏は家伝文書の多くが散逸しているため、真田氏の資料を使用するなどの搦め手が必要になる。外交文書においては、例えば近世大名家として存続している上杉家との関係においては武田氏側から発給された文書の多くが上杉家に伝存し、一方の上杉氏側から発給した文書の多くは伝存していないといった特徴をもつ。
武田氏の偽文書
なお、武田氏関係の古文書には偽文書が多いことも指摘され、一見してそれとわかる稚拙なものから、明らかに地域の事情に精通した人物によって作られた精巧なものまで様々な物が見られる。既に江戸時代から、甲斐国や信濃国に偽文書が多いことが知られており、その多くは武田信玄と徳川家康のものである。甲斐国では「大小切税法」という独特の金納税法を取っており、近世後期には換金相場が固定されていたことから相対的に年貢が低率となり、これは武田家以来の恩寵だという由緒が語られるようになる。そこでいわゆる「恩借証文」と呼ばれる偽文書が各地の村や家に伝来し、中には木版で印刷されたものも存在する。また、武田旧臣という由緒を誇る武田浪人たちも、偽文書を保持していた。これらは、戦功を讃えた内容に武田氏が用いた龍の朱印が捺された感状と、徳川家康による知行宛行状や本領安堵の朱印状を一緒に偽造することが多い。更に宗門人別改帳さえも、和紙の端を水で解し、その繊維を利用して紙を継ぐ喰裂継ぎという手法をもちい、別の文書に継ぎ足して内容を改ざんするという手の込んだものも見られる。このように多く偽文書が作られたのは、村落で地域の名家として成長した地主たちが、その家産に見合った家名を欲し、地域的な由緒である武田信玄と、全国的な由緒である徳川家康を組み合わせることで、武士との近似性を強調し、村落における家格の優位性を誇ろうとしたのだと考えられる[9][10]。
安芸武田氏
安芸武田氏の成立
安芸武田氏は5代武田信光の時代の承久3年(1221年)に起こった承久の乱の戦功によって鎌倉幕府より安芸守護に任じられたことから始まる。任命当初は守護代を派遣していたが、後に7代武田信時の時代に元寇に備えて安芸国に佐東銀山城を築き本格的な領土支配に乗り出すようになった。
元弘3年/正慶2年(1333年)鎌倉幕府が滅亡した時には10代武田信武は幕府の六波羅に味方しており、建武の親政において後醍醐天皇方となった甲斐守護・武田政義の後塵を拝した。しかし、南北朝時代に武田政義が南朝方であったのに対し、信武は北朝側の足利尊氏に属して戦功を上げ、甲斐国と安芸国の両守護に任命され、信武の子の武田信成が甲斐守護、武田氏信が安芸守護を継承した。
この氏信が安芸武田氏の初代となる。ただし、近年の研究では信武が本来所持していた安芸守護と伊豆守の官途名を継承したのは氏信であったことから、甲斐武田氏の武田信成は庶子であり、安芸武田氏(後の若狭武田氏)の方が武田氏嫡流であったとされる[11]。しかし、信成の子である信春が信武が称したもう一つの官途名である陸奥守に任じられていることや後に甲斐自体が中央から離れて鎌倉府の管轄にされたことから、室町幕府と鎌倉府に権力が分かれていく過程で武田氏嫡流も室町幕府支配下(安芸)と鎌倉府支配下(甲斐)に分立するようになったとする別の説も出されている[12]。また、氏信は応安元年(1368年)に幕府によって守護職を解任され、以降は安芸守護職は今川氏や細川氏等の足利一門が担ったが、安芸武田氏自体は銀山城を中心とした分郡守護[※ 7]として存続している。武田信繁まで分郡守護の家として足利将軍家に仕え、信繁の嫡男である武田信栄は、若狭守護となったのを機会に安芸から若狭に武田氏の本拠地を移した。
戦国時代の安芸武田氏
応仁の乱の最中の文明3年(1471年)1月、武田信繁の四男で代官として安芸分郡を治めていた武田元綱が兄である若狭武田氏の武田信賢から独立する。安芸武田氏と西軍の周防守護大内氏とは対立関係にあり、応仁元年(1467年)に始まった応仁の乱でも東軍方について参戦したが、元綱は大内氏の圧力に屈し西軍に転じた。その後、若狭武田氏と和解したが、元綱の子の武田元繁も、足利義材を奉じた永正5年(1508年)の大内義興の上洛に際してこれに属し、第11代将軍・足利義澄方であった若狭武田氏と決別した。しかし、永正12年(1515年)、大内義興が元繁を帰国させると尼子氏らと組んで大内氏に対抗した。
安芸武田氏9代武田信実の時代、天文10年(1541年)に大内氏の命を受けた毛利元就によって銀山城は落城し滅亡した。戦国時代末期から安土桃山時代にかけて毛利氏の外交僧として活躍した安国寺恵瓊は、信実の従兄弟である武田信重の子にあたるとされ、安芸武田氏の中で唯一後世に著名な人物である。
また、光和の庶子である武田小三郎は毛利氏に従い、以降代々仕えた。毛利氏の防長移封に従ったため、周防武田氏と称している。
毛利氏の家臣録である萩藩閥閲録によると、高杉氏が提出した家譜録では高杉晋作の祖先は備後国高杉城主の高杉小四郎春時とされ、安芸武田氏庶流の祝氏を名乗り、後に高杉と名字を変え、初代:春時 → 春光 → 春貞 → 就春 → 春俊 → 春信 → 春善 → 春明 → 春豊 → 春樹 → 春風(晋作)と続いた。
系譜
※点線は養子
地下家の武田氏
廷臣の地下家で正六位下を極官とする院蔵人の武田氏は、安芸武田氏の武田信繁の後裔であるとされる。
(「地下家の一覧」参照)
伊予武田氏
安芸武田氏の武田信繁の弟(武田信賢の弟とも)で、金山城の留守居役であった武田信友が主君武田国信からの独立後、河野氏より客将として招かれた事から始まる。また、江戸時代前期、朝廷や徳川将軍家、諸侯の診療にあたった武田道安も、この伊予武田氏の流れをくむとされる。
道安(俗名・信重)の父は武田信治。
信治は伊予の河野通直に属していたが、1585年の豊臣秀吉の四国征伐の際、毛利氏の小早川隆景に破れ、豊臣傘下となった。翌年からの九州征伐に仙石秀久傘下の四国勢の一角として豊後国に渡ったが、征伐の前哨戦であった戸次川の戦いで豊臣方は大敗北し、仙石や長宗我部元親らと同様に信光も戦場離脱し逃走した。秀吉は敗戦に激怒し仙石家は所領を没収された。信治も罪を問われるのを恐れて高野山で蟄居したが、織田信雄の仲介で許され信雄に仕えた。
子の信重は1584年に産まれ、父の前述の経歴から地元にはいられなかったのであろう、京の建仁寺長老英甫永雄に師事して学んだ。永雄は若狭武田氏出身であり、同族の庇護を受けた形である。信重は医学を学んで浅野幸長に仕えたが、京でもその名は高くなり、天皇や徳川将軍、御三家なども診察する、当時の医者としての名声の頂点を極めた。
信重の子の信良と信成も高名な医師であり、子孫は代々医師として幕府や朝廷に勤めた。
若狭武田氏
若狭武田氏の成立
若狭武田氏は安芸武田氏4代武田信繁の嫡男である武田信栄が、室町幕府第6代将軍・足利義教の命を受けて1440年(永享12年)に一色義貫を誅殺した功績により若狭守護職を任命されたことによって始まる。足利将軍家および細川京兆家の信任が厚く、歴代の多くが始祖武田信光以来の武田伊豆守の名乗りを許されていたこと・武田氏一門の中で一番高い官職に任じられていたこと・丹後守護を兼ね幕府のある畿内周辺で二ヶ国もの守護に任じられていたことなどから、武田氏の本流という見解も存在する。
信繁の嫡男である信栄は、一国守護となったのを機会に安芸から若狭に武田氏の本拠地を移した。ゆえに安芸武田氏の嫡流は若狭武田氏である。信栄の代は、一色氏の被官が多く若狭屈指の港湾都市として栄えていた遠敷郡の小浜(現・小浜市)には入れず、大飯郡高浜(現・高浜町)に武田氏の館があったといわれている[13]。信栄は1441年(永享13年)28歳で病死するが跡を弟の武田信賢が継ぎ、安芸国と平行して若狭国経営に乗り出した。信栄の墓所は本拠地のあった大飯郡高浜に現存する。
戦国時代の若狭武田氏
信賢は若狭国内の一色氏残党や一揆を次々に鎮圧して国内を固める一方、応仁元年(1467年)からの応仁・文明の乱では東軍に属して丹後国に侵攻するなど活躍し、室町幕府からの信頼も厚く、また文化人とも積極的に交流している。信賢以後、武田家は分裂し、安芸武田氏は信繁の四男の武田元綱が継ぎ、若狭武田氏は信繁の三男の武田国信が継いだ。国信は若狭国・丹後国加佐郡を中心に領国経営を行う一方で幕府の出兵要請に応えて頻繁に京へ出兵する。丹波守護の細川京兆家の要請による丹波への出兵も多かった。文明18年(1486年)には禁裏御料所の小浜の支配も認められている[13]。
国信の子の武田元信と孫の武田元光の代に若狭武田氏は最盛期を迎える。元光は大永2年(1522年)小浜に後瀬山城を築き、大永7年(1527年)に管領細川高国に頼られ第12代将軍・足利義晴を奉じて上洛したが、細川晴元方の三好氏と波多野氏に敗北した(桂川原の戦い)。その後、周辺諸国からの圧力、有力国人の離反などが相次いで国内での勢力を弱めていった。元光の孫の武田義統の時代には家督争いも加わりさらに弱体化が進行した。
義統は、永禄9年(1566年)8月に義理の兄である義統を頼って入国した足利義昭(足利義輝の弟)を庇護したが、義昭は武田家中の混乱を見かね、早々に越前朝倉を頼って若狭を出国した。
若狭武田氏も2年後の永禄11年(1568年)8月に、越前朝倉氏の若狭進攻によって領国を失う。武田元明は、朝倉氏によって一乗谷城居住を強いられていたが、天正元年(1573年)に織田信長によって朝倉氏が滅亡すると若狭に帰国した。
しかし、信長より若狭国を任されたのは丹羽長秀であり、元明は大飯郡南部の石山3,000石のみの領有を許されただけであった。天正10年(1582年)の6月の本能寺の変では、旧領回復を狙って丹羽長秀の居城の佐和山城を陥落させ、信長を滅ぼした明智光秀に加担するも、光秀に勝利した羽柴秀吉・丹羽長秀によって自害を命じられ、若狭武田氏は滅亡した。子(一説には弟)の義勝は津川姓、のち佐々姓を名乗り、京極高次に仕えた。
蠣崎氏の祖
若狭武田氏・武田信繁の近親の蠣崎季繁や、武田信賢の子の信広が蝦夷に渡り蠣崎氏の祖になったという伝承もあり、若狭武田氏は小浜を拠点に陸奥国の南部氏や北海道など甲斐源氏の一族が居住する地域との日本海交易を行っている。蠣崎氏の一部は江戸時代に姓を変えて松前氏となり、松前藩の藩主となった。なお、陸奥国の土豪が武田氏の末裔を仮冒したという説もある。また、一色氏の家臣であった武田氏が没落後に蝦夷に渡ったとする説もある(こちらの武田氏も一色氏が若狭守護であった時代に同国の小守護代を務めており、別系統の「若狭武田氏」と言える)[14]。
茶道の大家
高名な茶人の武野紹鴎は若狭武田氏の出身と伝わる。詳しくは武野紹鴎の項目参照。
系譜
※点線は養子
京都武田氏
甲斐武田氏の始祖武田信成や安芸武田氏の始祖の武田氏信の兄弟である山県公信(薩摩守)に始まる武田氏庶流。室町幕府の奉公衆四番に属し足利将軍家に代々の当主が直接仕えた。
公信 - 武明 - 満信 - 持信 - 尚信 - 尹信 - 藤信と続いた。尹信は足利義稙の地方への動座に従い、藤信は足利将軍家と三好氏の戦いで討ち死にした。ただし、尚信(道鑑)の子で父と共に甲斐武田氏を頼った武田信喬の系統が京都武田氏の嫡流であったとする説がある(明応の政変後に甲斐本家の客分となったため、将軍家から偏諱を受けることがなくなったという)[15]。
嫡流の藤信の子の彦五郎は徳川家康の知遇をえて幕府が開かれた江戸に下向した。
中務大輔家
庶流京都武田氏の分家である。京都武田氏とともに足利幕府の奉公衆に列した家柄。
武田満信の次男の武田持明から始まる。持明 - 政明 - 熙明 - 材明 - 藤信と続いた。若狭の将軍家御料所の管理をまかされていた時期がある。庶流は若狭遠敷郡に土着した。
上総武田氏
上総武田氏は第12代甲斐武田氏当主武田信満の子の武田信長に始まる家系である。古河公方足利成氏によって上総国の支配を認められて同国を支配した。信長の息子の信高の死後、本家は庁南城に、分家は真里谷城に本拠を構えた。嫡流は地名を取って庁南武田氏(ちょうなんたけだし)を名乗った。上総武田家最後の当主武田豊信は地元の伝承では甲斐武田氏の武田信玄の三男の信之と同一人物とされており、織田氏による甲斐武田氏滅亡後に弟の仁科盛信の家族を匿ったとする説がある。以後、豊信は北条氏傘下の将として反織田氏・反豊臣氏路線を貫き、1590年に小田原征伐中の豊臣軍によって居城を囲まれると自害し、同氏は滅亡した。
一方、真里谷城の分家は真里谷氏(まりや/まりやつし)と名乗った。戦国時代前半には上総国西部から中部一帯を領有する大勢力となった。真里谷信清は古河公方足利政氏の子の義明が家督争いの末に出奔するとこれを迎え入れて「小弓公方」と名乗らせ、自らは「房総管領」を名乗ったと言われている。だが、庶出ながら一人息子であった信隆に家の実権を譲った後に正室から次男・信応が生まれると、「嫡出の信応を後継者とすべき」とする一派と「一度信隆を後継者と決めた以上は変えるべきではない」とする一派に家臣団は分裂した。信清の死後、信隆が当主になったが、程なく信応派が足利義明や里見義堯と同盟を結んで信隆を真里谷城から追放した。このため信隆は北条氏綱の元へと亡命した。これが第一次国府台合戦の一因とも言われている。同合戦後、北条軍に攻められた真里谷信応とその支持者は降伏し、信隆が当主に復帰したが、信隆の死後に里見義堯が、信隆の跡を継いだ信政を攻め滅ぼして真里谷氏を支配下に収めたが、第二次国府台合戦後には再び北条氏に屈服した。豊臣氏の小田原征伐によって庁南の本家と共に所領を奪われた。真里谷信高は那須氏のもとへ亡命した。
本家の庁南武田氏の豊信の子の氏信が生存し、庁南城落城の後家臣団に守られて近隣に移住し、郷士として土着したともされている[要出典]。その子孫らは、江戸時代には漢方医として地域社会に根ざし、現在でも上総地域を中心に千葉県下に庁南武田氏末裔が営む医療機関が多く存在する。この子孫を名乗る家系は現在も血筋が続いているとされる[要出典]。庁南武田氏は、甲斐源氏始祖源義光(新羅三郎義光)からはじまる第13代甲斐武田氏当主武田信重(武田信玄の5代前)の次弟武田信長を始祖(1458年)とし、現代では第20代めとなっており唯一父系男系系統が維持されている。甲斐源氏武田氏の始祖(1140年)から数えると32代目ということになる。分家の真里谷氏のその後は不明である[要出典]。
- 実線は実子、点線(縦)は養子、点線(横)は婚姻関係。
因幡の武田氏
因幡守護・山名氏の家臣に若狭武田氏傍流の一族がいる。いつ頃から因幡山名氏に仕えたのかは不明だが、『蔭涼軒日録』延徳3年(1491年)11月6日条に山名豊時家臣として「武田左衛門大夫」の記述が見える。1545年(天文14年)、山名誠通の家臣武田国信が久松山城(後の鳥取城)を改築したが、あまりに堅固過ぎたため、主君より謀叛の疑念を買い謀殺された(国信の最後に関しては諸説あり、天文9年の橋津川の戦いで討ち死にしたとする説もある)。
天文年間に鵯尾城が築城され、国信の嫡男の武田高信が入ると弟の武田又三郎に鵯尾城を任せ、自らは鳥取城に入り守護山名豊数に対抗するような姿勢を見せる。1563年(永禄6年)、安芸の毛利氏と結んだ高信は鹿野城主・山名豊成(誠通の子)を毒殺、同1563年(永禄6年)4月の湯所口の戦いで豊数を破った。布勢天神山城を追われた豊数は鹿野城へ逃れたものの、後に病死した。1573年(天正元年)、出雲の戦国大名尼子氏の支流・新宮党の遺児である尼子勝久と山中幸盛が因幡に侵入し、甑山城に入城する。武田氏は山名豊国・尼子勝久連合軍と戦うため、これを攻撃するが破れ、鳥取城を主家 山名氏に明け渡し、鵯尾城に退いた。1578年(天正6年)、美作の国人領主・草刈氏が因幡国智頭郡に淀山城を構え、勢力を伸ばすと、山名氏はこれを討伐するため、同国佐貫の大義寺に陣を敷き、武田高信に軍議に応ぜよと招聘()した。高信が寺に入ると門を閉ざし、これを討ったため、因幡の武田氏は滅亡した。
なお、近年の研究によって武田高信の死は1573年(天正元年)5月以前であることが判明しており、同1573年(天正元年)5月4日付の「小早川隆景書状」(『萩藩閥閲録』)には「不慮に相果て」と記されている。また、数年後の毛利氏側の史料には織田方との密通が明らかになったため、山名豊国によって切腹させられたと記されている。
『陰徳太平記』『因幡民談記』などによれば、高信の遺児の武田源五郎は南条元続の元に、源三郎(武田助信)は小早川秀包の元に身を寄せたという。この内、武田源三郎は村岡藩主となった山名豊国が200石をもって召抱えたとされる。明治元年(1868年)1月の『山名家加封之時藩士格録人名』には武田氏の名前が見えており、因幡武田一族の一部は山名家に仕え、村岡藩士となり、明治維新を迎えたことが分かっている。
- 武田国信(豊前守)
- 武田高信(嫡男)
- 武田助信(村岡藩士となり、山名豊国に仕える)
常陸の武田氏
- 常陸の武田氏(1)
源義光の子の源義清が常陸国那珂郡武田郷より起こる。冒頭を参照。
- 常陸の武田氏(2)
1392年(明徳3年)、甲斐武田家12代武田信春の子の信久が甲斐国より常陸国行方郡高家郷(現在の茨城県行方市)に下り、木崎城の居城を構え、高家郷を武田郷に改名して領地を治める傍ら剣術の一流を築いた。以降から成信、信俊、昌信、信益、信親、信治、通信と世襲し、9代目である通信の子の信房は天正19年(1591年)2月に多くの大掾氏一族とともに、太田城で佐竹義重に招殺された(南方三十三館主謀殺事件)。生き延びたとされる信房の子の輔信の後継者の顕輔、尚徳が水戸藩に仕え、師範となり、家伝剣術の他、北辰一刀流剣術・鹿島新当流・天真正伝香取神道流を修め、後継者の輔長に伝えた。輔長はこれを武田新当流として確立。今日に至る。別の説では信久以前に武田高信が常陸守護代をつとめたともいう。
- 武田信久
- 武田成信
- 武田信俊
- 武田昌信
- 武田信益
- 武田信親
- 武田信治
- 武田通信
- 武田信房
- 武田輔信
- 武田顕輔
- 武田尚徳
- 武田輔長
- 常陸の武田氏(3)
戦国時代まで甲斐武田氏の庶流にして守護代であった跡部氏は、武田氏滅亡の折、主家に叛いて後に徳川氏の家臣となる。その後、子孫は水戸藩(水戸徳川家)に仕えたが、幕末時に主家に叛いた跡部姓を嫌った耕雲斎が主君徳川斉昭に願い出て、本姓である武田姓に復姓した。
- 武田正生(耕雲斎)(贈正四位。水戸藩士 跡部正続の子。本家の跡部正房の養子となる)
- 武田魁介(正生の子)
阿波の武田氏
甲斐武田氏の武田信虎の庶子と伝わる武田信顕は、阿波脇城主三好兼則に代わって脇城主となり、この子孫が阿波に土着した。それ以前にも東条関兵衛の父として武田信綱なる人物が確認でき、これも甲斐武田氏の出身と伝わる。
信顕は何らかの理由で大和国にいたが、三好長慶に招かれて脇城主となり、長慶の死後は引き続き三好長治に仕えた。天正6年(1578年)、長宗我部元親の侵攻を受け、隣接する阿波岩倉城主の三好康俊と共に降伏する。織田信長の四国侵攻の際は、康俊の父である三好康長の説得により三好方戻るも、本能寺の変後に再び長宗我部元親の侵攻を受ける。信顕は手勢500を率いて籠城し、長宗我部勢3000の兵の前に5日間耐えるも、信顕嫡子信定は自害、信顕自身は讃岐国へ脱出したのち、追手に討たれて戦死した。
阿波武田氏三代目の武田與次は、阿波一国の大名として入国した蜂須賀家政に仕えて脇城主の座は再び阿波武田氏のもとに戻った[16]。與次の死後はその子四代與次左衛門が家督を相続した[16]。與次左衛門嫡子の武田武貞を初代とする武田家の系図が六代目武田武久によって記され[16]、『蜂須賀家家臣成立書并系図』に収録されて徳島大学附属図書館に所蔵されている。
分家に川原氏がおり、武田氏が源姓であることに因んで「源」の字を「川」と「原」に分解した名字であるという。
- 実線は実子、点線(縦)は養子、点線(横)は婚姻関係。
その他
- 相模国には戦国時代には北条氏に従った武田氏がいた。上総武田氏の真里谷信隆が北条氏を頼ったのは、相模の武田氏が仲介したからだとされる。その他では土佐国の香宗我部氏は武田氏の一族であったとする説がある(武田菱の陣羽織が現存している)。
家紋
甲斐武田氏の家紋は武田菱(たけだびし)と呼ばれる「割り菱(わりびし)」である。ほかの武田氏の氏族も使用する。ほかに「花菱(はなびし)」を使用している。『見聞諸家紋』では「割り菱」と「松皮菱(まつかわびし)」が載る。
-
武田菱
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割り菱(『
見聞諸家紋』)
「武田菱」と同図だが、菱の間隔が広いものを「割り菱」として区別することがある。
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花菱盾無の袖についていたのは花菱であるとするものがある
[17]
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松皮菱(『見聞諸家紋』)
由来
由来には諸説あり、一説には武田の「田」の字を元にデザインされたとも言われている。[17]
室町幕府の公式家紋集である『見聞諸家紋』には、
「頼義男新羅三郎義光の末孫也。従四位下。伊予守鎮守府将軍。童名千手丸。永承五年。後冷泉院依勅。奥州安倍頼時攻。是時詣住吉社。新平復夷賊。干時有神託。賜旗一流。鎧一領。昔神功皇后征三韓用也。神功皇后鎧脇楯者。住吉之御子香良大明神之鎧袖也。此裙之紋。割菱也。三韓皈国後。鎮座於摂津国住吉。以奉納干寳殿矣。今依霊神之感応。干源頼義賜之。可謂希代也。頼義三男新羅三郎義光雖為季子。依父鐘愛伝之。即旗楯無是也。旗者白地無紋。鎧有松皮菱。故義光末裔当家為紋。」
とある。
前九年の役(1051年 - 1062年)のとき、武田氏の祖である源義光が、住吉大社に武運長久を祈念した際、住吉大社に奉納されていた「楯無」の鎧を神託によって拝領した。その鎧の袖についていた「割菱」の文様を武田氏の定紋としたという。
楯無とは、神功皇后が三韓征伐の時に使用したといわれる鎧で、その後は、武田家の家宝として伝わった(現存する、国宝「楯無(小桜韋威鎧 兜、大袖付)」は鎌倉中期のもの)。
旧・甲斐国の山梨県では、甲府駅から一般家屋に至るまであらゆる場所に武田菱が見られる。また、山梨県を通るJR特急列車に使用されているE257系0番台の車体デザインにも武田菱が採用されている。また、山梨県の県章は、武田菱をベースに、富士山の山頂をイメージして四隅がギザギザになった菱形で囲んだ形である。
主な一族・家臣
所属家臣
所属家臣と言われている者
- 月甫清光(がっぽ せいこう ※名前の読み方には諸説あり)
系譜
甲斐源氏・武田宗家の系図(武田家系図)は伝存するものでは近世初頭からの系図が確認されているが、室町期に成立した『一蓮寺過去帳』においては武田家系図を参照して僧帳を作成した経緯が記されており、近世期に伝わる武田家系図の原本が存在していたと考えられている。
近世初頭の成立の武田家系図には武田源氏一統系図、円光院武田家系図、南松院武田家系図、大聖寺武田家系図などがある[18]。
円光院武田家系図は清和源氏から甲斐源氏の武田氏・逸見氏の家系図、足利将軍家や鎌倉公方家の足利家系図らを引き継ぎ、信時流武田氏の信武から信縄までの武田宗家・信君までの穴山氏の系図をまとめた構成となっており、異筆で今井氏の系図が記されている。円光院武田家系図は本来的には信虎から信玄・勝頼・信勝までの宗家系譜が存在せず、信虎以降の宗家に穴山勝千代を続けた加筆部分が存在している。加筆部分から円光院武田系図は信君没年である天正10年から勝千代没年である天正10年の間の成立であると考えられており、本来的には穴山氏の由緒を強調する意図があったと考えられている。
江戸時代には武田宗家の子孫として旗本川窪氏がいるが、川窪氏は円光院武田家系図を底本に武田源氏一統系図・川窪氏系図を編纂し、これは『寛永諸家系図伝』に収録され、江戸時代に作成された諸系図の多くはこれを底本としている。武田源氏一統系図は一蓮寺過去帳に由来する楯無鎧の承伝過程を記している点などが注目される。
南松院武田家系図は同じく円光院武田家系図を底本に1630年代頃に成立したと考えられており、武田宗家から穴山氏・今井氏の系譜を記し、円光院武田系図と同様に穴山氏の系譜を記すことが目的であったと考えられている。
大聖寺武田家系図は川窪氏系図が記載されていることから武田源氏一統系図以降に作成されたと考えられており、高家武田家の系譜が存在しないことから高家武田家系図成立以前の作成であると考えられている。
河窪武田家
- 実線は実子、点線(縦)は養子、点線(横)は婚姻関係。
仁科・油川武田家
武田晴信 | | | | |
| | | | | | | | | | | | | | | | | |
仁科盛信1 | | | | | | | |
| | | | | | | | | | | | | | | | | | | | | | | | | | | | | | |
| | | | | | | | | | | | | | | | | | | | | | | |
信基2 | 晴正 | 信久1 | | | | | | | | | | | | | 油川信貞1 | | | |
| | | | | | | | | | | | | | | | | | | | | | | | | | |
盛忠3 | 信峰 | 信衡2 | | | | | | | | | | | | | 信忠2 | | | |
| | | | | | | | | | | | | | | | | | | | | | | | | | | | | | |
| | | |
信照4 | 林信国 | 信道3 | | | | | | | | | | | | | 信似3 | 渡辺正利 | | |
| | | | | | | | | | | | | | | | | | | | | | | | | | |
| | | | | | | | | | |
盛晴5 | | | | 信勝4 | | | | 信忠1 | 信友 | | | | 武田信定4 | | |
| | | | | | | | | | | | | | | | | | | | | | | | | | | | | | | | | | | | | |
| | | | | | | | | | | | | | | |
盛朝6 | | | | 信貞5 | 信乗 | 信友2 | | | | | | | 信房5 | 三浦信之 | 三浦政明 | 信照 |
| | | | | | | | | | | | | | | | | | | | | | | | | | | |
| | | |
忠盛7 | | | | 信乗6 | | | | 信于3 | 信昌 | | | | 信照6 | | |
| | | | | | | | | | | | | | | | | | | | | | | | | | | | | | | | | | |
| | | | | | | | | | | | | | | |
高信8 | | | | 信方7[‡ 1] | | | | 信辰4 | 信庸 | 信総 | 信義7 | 義豫 | 関根良貴 |
| | | | | | | | | | | | | | | | | | | | | | | | | | | | | | | |
| | | | | | | |
盛次9 | | | | 信貫8[‡ 2] | | | | 信豊5[‡ 3] | 信興 | | | | 信続8 | 信平 | |
| | | | | | | | | | | | | | | | | | | | | | | | | | | |
信真10 | | | | 信邦9[‡ 4] | | | | 信久6[‡ 5] | 信豊 | | | | 信平9 | | |
| | | | | | | | | | | | | | | | | | | | | | | | | | | | | | | | | | |
| | | | | | | | | | | |
定盛11 | | | | 信任10 | | | | 次郎太郎7[‡ 6] | 信民 | | | | 信任10 | 信成 | 信邦 |
| | | | | | | | | | | | | | | | | | | | | | | | | |
盛照12 | | | | 鉱造11 | | | | | | | | | | | | | 信成11 |
| | | | | | | | | | | | | | | | | | | | | | | | | | | | |
| | | |
信国13 | | | | | | | | | | | | | | | | | | | 信邦12 | 信行 | | | | |
| | | | | | | | | | | | | | | | | | | | | | | | | | | |
盛輔14 | | | | | | | | | | | | | | | | | | | 信行13 | | | | |
| | | | | | | | | | | | | | | | | | | | | | | | | | | | | | | | | | | | |
| | | | | | | | | | | |
盛定15 | | | | | | | | | | | | | | | | | | | 信益14 | | | | | | | | | | 松次郎15 | | | | |
| | | | | | | | | | | | | | | | | | | | | | | | | | | | | | | | | | | |
| | | | | | | | | | | | | | | | | | | | | 虎彦16 | | | | | | | | | | 信吉 | | | | |
| | | | | | | | | | | | | | | | | | | | | | | | | | | | | | | | | | | | |
| | | | | | | | | | | |
| | | | | | | | | | | | | | | | | | | | | 忠夫17 | 信男 | 吉彦 | 義正 | ふみ | | | |
| | | | | | | | | | | | | | | | | | | | | | | | | | | | | | | | | | |
| | | | | | | | | | | | | | | | | | | | | | | | | | | | | | | | | 義正 | | | |
脚注
注釈
出典
参考文献
系譜参考
関連項目
外部リンク
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