汽車製造
汽車製造(きしゃせいぞう)は、1896年(明治29年)に設立され、1972年(昭和47年)に川崎重工業に吸収合併されて消滅した鉄道車両メーカーである。正式名称は汽車製造合資会社(1896年)→汽車製造株式会社(1912年会社組織変更により改称)で、通称は汽車会社・汽車製造会社、略称はKSKであった。 会社の消滅まで社名ロゴには旧字体を使用しており、同社が製造した多くの車両の銘板には汽車會社と表記されている。会社が消滅するまでは、現在の東京証券取引所に上場していた。 黎明期日本の鉄道行政の黎明期を牽引した井上勝が、1896年(明治29年)9月7日に設立した[1][2]、日本初の民間機関車メーカーである。設立当時、資本金64万円という大資本を擁する会社であった[1][2]。井上は、鉄道庁長官を辞して下野したが、それを機に長州藩の先輩である井上馨や、黒田長成、前田利嗣、毛利五郎らの旧諸侯、岩崎久弥、住友吉左衛門、渋沢栄一、安田善次郎らの実業界の有力者らに出資を仰ぎ[1][2]、1899年(明治32年)7月、大阪市西区川北大字島屋(現・此花区島屋)に開業した[2][1]。 当時の日本では民間で機関車を製造したメーカーはなかったが、客車等を製造するメーカーとしては平岡工場、三田製作所、東京石川島造船所、天野工場が4大メーカーで、その他にも中小メーカーが多く存在した。技術と実績は平岡工場が一番であり、井上はそこから経営と製作に実績のある平岡凞を副社長として迎え、自らは社長の座に就いた。技師長としては、トレビシック級の外国人を招聘する予定であったが得られず、日本鉄道大宮工場の長谷川正五が引き抜かれた。 機関車の製造は、鉄道作業局新橋工場からA8形タンク機関車の図面を借りることから始まった[注 1]。 鉄道作業局のA8形を模倣した製造番号1と2は、1900年(明治33年)7月、同時に着工された。注水器や注油器などの小物部品、動輪などがイギリスから輸入されたが、製造メーカーは明らかでない。大手のダブスではなく、中小メーカーのナスミス・ウィルソンあたりではないかと推定されている。これらは、納入先が決定しないまま着工されたが、製造途中で台湾総督府鉄道に納入されることになり、1901年(明治34年)9月18日、1号機の試運転が実施され、完成検査は鉄道作業局神戸工場の森彦三が務めた。ただし、これは日本における民間工場製機関車第1号ではない。民間第1号は、名古屋に設立された鉄道車両製造所製の車軸配置2-4-0(1B)形タンク機関車で、1900年に完成し、徳島鉄道に納入された。後の国有化により鉄道院180形となった機関車である。 しかし、この第1号機関車は、台湾への輸送途中に海難事故によって失われ、非常に幸先の良くないスタートとなってしまった。代機となったのは、その保険金で製造したといわれる製造番号6で、こちらは1903年(明治36年)に大阪で開催された第5回内国勧業博覧会に展示後、台湾に送られた。このA8形模倣の2-4-2(1B1)形タンク機は、A10形(後の230形)として鉄道作業局へも納入され、私鉄に納入されたものも含めて、1905年(明治38年)までに51両が製造された。 歴史
製造能力鉄道車両の製造は東京製作所・大阪工場・宇都宮工場の3か所で行われていた[3]。川崎重工業との合併までの76年間に機関車約3,950両、客車・電車約8,370両、貨車約4万5,620両、計約5万7,940両の鉄道車両が製造された[3]。 東京製作所の最終製造車は1972年(昭和47年)3月28日に出場した大船電車区(当時)新製配置の国鉄113系1000番台9両(クハ111-1023 + モハ113-1053 + モハ112-1053 + クハ111-1338 + クハ111-1024 + クハ111-1025 + モハ113-1054 + モハ112-1054 + クハ111-1339)であった[4][5]。 私鉄最後の製造車両は京成3300形電車3353 - 3356号であった[注 10]。 大阪製作所の最終製造車は1972年(昭和47年)3月27日に出場した国鉄DE10 1171(製造番号3572)号であった[6]。 鉄道車両以外の製造品
1900年(明治33年)より、日本統治下の台湾総督府鉄道縦貫線向けに多数納品した[8]ほか、日本各地に数多くのトラス橋、アーチ橋などを製作している[8]。
製造工場
KS形台車汽車製造は第二次世界大戦後、自社開発の台車について、KSで始まる形式を与えた。 これらはその最初期から他社に先駆けてオイルダンパとコイルばねを併用した枕ばね機構を導入し、また蛇行動抑止の手段としてボルスタアンカーをいち早く導入するなど、戦後の日本における高速電車用台車の研究開発では業界をリードする立場にあった。中でも高田隆雄技師(当時)の主導の下で研究開発された空気ばね台車は、新幹線を含む以後の日本の鉄道車両用台車設計に絶大な影響を及ぼした。 このKS形台車には、スイスのシンドラー社との技術提携によって導入された円筒案内式軸箱支持機構を備えるシンドラー式台車、独自の構想により開発された防振ゴムによる簡素な軸箱支持機構と単純な形状の側梁を備える軸箱梁式の一自由度系低コスト空気ばね台車であるエコノミカル・トラック(エコノミカル台車)など、特徴的かつ先進的な構造のものが多数含まれており、その大半は京阪電気鉄道や京阪神急行電鉄をはじめとする私鉄各社に納入された。 また、日本初の実用空気ばね台車となったKS-50[14]、左右の車輪を車軸で結合せず、それぞれ個別に回転可能とした自由回転車輪台車のKS-68、それに前代未聞の全アルミ製側梁を持つKS-75[注 11]など、京阪神急行電鉄時代から川崎重工業との合併まで重要な顧客であり続けた京阪電気鉄道の協力を得て、多くの試作台車を世に送り出したことでも知られている。 これらの汽車製造の独自設計に由来する台車群は、1972年(昭和47年)の川崎重工業との合併後も生産と開発が継続した。もっとも、新規開発は京阪3000系電車 (初代)用KS-132Aを最後に川崎重工業の台車開発の本流であるKWナンバーの台車に引き継がれてKSナンバーでの開発を終了、生産も1978年(昭和53年)3月竣工の京阪1000系最終編成用として納入されたエコノミカル・トラックのKS-77Aが最終形式となり、約四半世紀に渡ったKSナンバーを持つ台車の設計製作は終焉を迎えた。 なお、台車の開発で汽車製造にとって最大の競合相手であった住友金属工業でも、路面電車用のKS-40JをはじめKSを形式に冠した台車が存在した。こちらは住友家の歴代当主が襲名する名である住友吉左衛門のイニシャル(Kichizaemon Sumitomo)に由来する名称である。もっとも、1948年(昭和23年)以降は当時の社名である扶桑金属工業からFSを形式の識別子として使用するようになっており[注 12]、直接に形式番号の重複が問題になるようなケースは発生していない。 脚注注釈
出典
参考文献
関連項目
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