沖山光利
沖山 光利(おきやま てるとし、1933年5月1日 - 2012年5月23日)は、東京都出身で、大洋ホエールズに在籍したプロ野球選手(外野手)である。1960年の大洋V1戦士の1人。 来歴・人物明治高校では外野手として、甲子園に3回出場した。2年生時の1950年春の選抜では1年上のエース・大崎三男を擁し、1回戦で彦根高を降すが、準々決勝で北野高に敗退[1]。同年夏の選手権は2回戦(初戦)で北海高に敗れる[2]。翌年の春の選抜では準決勝まで進むが、藤尾茂、中田昌宏らを擁した鳴尾高に大敗した[1]。 卒業後は明治大学に進学。東京六大学野球リーグではエース秋山登を擁し、1953年秋季リーグの戦後初優勝を含め、在学中に3度の優勝を経験。1954年、1955年の全日本大学野球選手権で連続優勝を果たす。同年の第2回アジア野球選手権大会日本代表として、日本チームの優勝に貢献。リーグ通算95試合出場、323打数86安打、打率.266、1本塁打、23打点、ベストナイン(外野手)2回。 1956年に大洋ホエールズに入団。秋山、土井淳、岩岡保宏、黒木弘重らと同期入団し「明大五人衆」と呼ばれ話題になった。俊足巧打を買われ、開幕から左翼手、一番打者として起用される。同年は規定打席(28位、打率.202)に達し、19盗塁を記録。6月6日の対阪神戦で小山正明と対戦。初回先頭打者でヒットを打つ。しかし小山はその後の打者27人を完璧に抑えて完封し「沖山に打たれなければ完全試合だった」と悔しがった。 翌1957年は序盤に故障欠場するが復活。その後も勝負強い打撃で活躍するが、1960年のオープン戦で犠打を失敗し併殺打に倒れると、三原脩監督が激怒。開幕以降の先発出場はわずか1試合と、2ヶ月近く起用されなくなる。5月5日の巨人戦でようやく代打起用され逆転タイムリーヒットを放ち、これ以後は左翼手として返り咲いた。沖山は「打席に立った時、足の震えが止まらなかった」と後に語っているが、これは当時6年連続最下位だった大洋のチーム体質を変える為に、三原監督が取った作戦だったと言われている。同年はチャンスメーカーとしてリーグ初優勝に貢献。大毎との日本シリーズは第2戦のみの出場で、3打数1安打とあまり活躍の場はなかった。同年限りで現役を引退。 引退後は30年以上にわたって二軍コーチ、二軍監督、球団フロントを歴任し、1996年に退団するまで大洋・横浜一筋のプロ野球人生だった。 ファームのコーチ時代、狙った所に正確に打つノックの腕は天下一品と言われていた。田代富雄のニックネーム「オバQ」および高木由一のニックネーム「とっつぁん」は、コーチ時代の沖山が付けたもの[3]。山崎賢一には「番長」[4]というニックネームを付けているが、プロ入り前の山崎のニックネームは「組長」であり、社会に出ればランクが下がるだろうと考え付けたものである[4]。後に三浦大輔へ「ハマの番長」として受け継がれた。 詳細情報年度別打撃成績
記録背番号
脚注関連項目外部リンク
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