渋沢氏(しぶさわし)は、日本の氏族。江戸時代の豪農で明治以降に渋沢財閥を形成した一族[1]。最も著名な人物は渋沢財閥の創業者である渋沢栄一[2][3][4]。
歴史
歴史
渋沢氏は甲斐源氏の逸見氏(もしくは下野源氏の足利氏)の流れを汲み、天正時代に始祖となる渋沢隼人が血洗島村にて帰農したという伝承がある[5]。
江戸時代には現在の埼玉県あたりの武蔵国血洗島の豪農だった。藍玉の製造販売と養蚕を兼営して米、麦、野菜の生産も手がける百姓だった。原料の買い入れから製造、販売までを担うため、一般的な農家と異なり、常に算盤をはじく商業的な才覚が求められた。
江戸末期には、血洗島村には渋沢姓を名乗る家が17軒あった。このため、家の位置によって「中ノ家(なかんち)」「前ノ家」「東ノ家」「古新宅」「新屋敷」などと呼んで区別した。
- 「中ノ家」:宗家であったが、江戸時代初期の明暦年間には家勢が振るわなくなっていた。栄一の父・市郎右衛門は「東ノ家」の当主2代目渋沢宗助宗休(渋沢儀刑の子である初代渋沢宗助宗安の子)の三男として生まれたが、「中ノ家」に養子として入り家勢を立て直し、栄一が生まれるころには村の中で「東ノ家」に次ぐ富農となっていた。栄一が故郷を出てからは妹の貞子が「中ノ家」を守り、須永家より渋沢市郎を婿養子にむかえ4代目とした。貞子・市郎夫妻の長男元治は栄一長女の歌子の娘である孝子と結婚、東京大学工学部長を経て初代名古屋大学総長となり、次男治太郎が地元に留まり、八基村村長、県会議員を務めた。
- 「東ノ家」:栄一が生まれる頃には一族で一番繁栄していたため、こちらが本家と呼ばれることもある。栄一の父も、栄一の従兄で論語の師でもある尾高惇忠の母も「東ノ家」出身。フランス文学者の澁澤龍彦は3代目渋沢宗助(市郎右衛門の兄)の玄孫。
- 「新屋敷」:「東ノ家」から江戸時代末期に分家した。2代目となる喜作(成一郎)は、従弟である栄一と共に故郷を出て、将軍徳川慶喜の奥右筆や彰義隊頭取を務め、明治維新後は実業家として活躍した。
渋沢子爵家
渋沢栄一は後に京都に上京して一橋慶喜に仕え、慶応2年(1866年)に慶喜が将軍になるに及んで幕臣となり、慶応3年から欧州視察に出、帰国後の明治初頭に大蔵省に勤務し退官後には実業家となり、第一銀行(後のみずほ銀行)などの企業を創業して渋沢財閥を築き上げた。
明治33年(1900年)5月9日に渋沢栄一は維新の功により勲功華族として男爵に叙され、ついで大正9年(1920年)9月4日に経済発展の功により子爵に陞爵した。
栄一と前妻の千代との間に生まれた嫡男・篤二が病弱な事もあり、栄一没後は、栄一の嫡孫(篤二の長男)の敬三が2代当主として家督を引き継いだ。また、篤二の次男(栄一の孫)・信雄と篤二の三男(栄一の孫)・智雄は子爵家から分家した。また、栄一と後妻・兼子の間に生まれた武之助、正雄、秀雄も分家した。
なお、敬三の代の昭和前期に渋沢子爵家の邸宅は東京市芝区三田綱町にあった。なお、敬三は日本銀行総裁や大蔵大臣や国際電信電話(現在のKDDI)初代社長など要職を歴任し、戦中・戦後の日本経済に深く関わる人物となった。
1963年に、敬三が死去した後は敬三の長男・雅英が3代当主として家督を継いだ。雅英はMRAハウスやJCIEなどの設立に関わる傍ら、渋沢栄一記念財団の初代理事長なども務め、栄一に関する活動をしている。なお、雅英は生前の栄一と面識のある唯一の存命子孫でもある。
系図
東ノ家
東ノ家の系図。
中ノ家
中ノ家の系図[8]。
(本家)
(別家)
新屋敷
新屋敷の系図[9]。
脚注
注釈
出典
参考文献