渋沢 治太郎(澁澤 治太郎[1]、しぶさわ じたろう、1878年(明治11年)12月30日 - 1942年(昭和17年)4月4日[2])は、日本の実業家、篤農家[3]、政治家。昭和産業[4]、深谷製絲所各代表取締役[5]、埼玉興業取締役[5]、深谷銀行監査役[5]、深谷倉庫社長[6]。八基村会議員、埼玉県会議員、八基村村長(1922年 - 1932年)。
人物
埼玉県人・渋沢市郎の二男[1][4]。渋沢栄一の甥[4]。1901年、分かれて一家を創立する[4]。住所は埼玉県大里郡八基村大字血洗島[1][7]。
家族
- 渋沢家
系図
渋沢氏(渋沢中の家)の系図(一部)[8]。
脚注
注釈
- ^ 渋沢市郎の生家も群馬の須永家であるが、須永は群馬県に多い名字であり、関係は不詳。
- ^ 「長男」(あるいは「次男」以下)でなく「嗣子」と文献に表記されている。
出典
参考文献
- 大日本篤農家名鑑編纂所編『大日本篤農家名鑑』大日本篤農家名鑑編纂所、1910年。
- 大蔵省印刷局編『官報 1916年02月15日』日本マイクロ写真、1916年。
- 人事興信所編『人事興信録 第9版』人事興信所、1931年。
- 帝国秘密探偵社編『大衆人事録 第12版 北海道・奥羽・関東・中部・外地・満州・支那・海外篇』帝国秘密探偵社ほか、1938年。