甘木市
2006年3月20日に朝倉町、杷木町と対等合併し、「朝倉市」となった。 地理福岡県の中央に位置する。市内を北西から南東へと貫く最重要幹線道路である国道386号から南側は盆地となっているが、北側(市域の約6割)は山地となっており、特に市の北部から東部にかけては古処山をはじめとする600〜900m級の山々が連なっている。この山地の一部分に寺内ダム・江川ダムがある。 国道386号沿線地域のうち、市の西部の一帯が現在の中心地となっており、中心商店街や西鉄甘木線・甘木鉄道の駅などが立地する。市中心部から北東約8kmの位置に旧城下町の秋月地区がある。秋月地区は明治時代以降、地域の中心地としての役割を失い、人口が急減したが、現在では「筑前の小京都」と呼ばれる観光地として、多くの人々が訪れる。 地域圏・経済圏甘木市の市域は福岡市などと同じく筑前国に属し、また福岡を統治していた黒田氏の分家による統治が行われていたこともあり、地域圏としては普通は福岡地域圏に分類されるが、反面、市内の鉄道網が久留米方向へ向かって整備されており久留米市を中心とする筑後地域圏に含まれる要素も多い。また、自動車のナンバープレート(陸運支局の管轄)も「福岡」ではなく「久留米」となっており、郵便番号も筑後地区に多い830番台の番号(838-XXXX) となっている。 隣接していた自治体歴史「甘木」という地域名は、920年(延喜20年)に建立された甘木山安長寺に由来するとされる。 992年 秋月荘「筥崎宮塔院所領秋月」(『石清水文書』) 鎌倉時代の1203年(建仁3年)、原田種雄(たねかつ)が幕府より秋月庄を賜り、秋月氏を名乗り、以後秋月氏による統治が行われ城下町として栄える。 甘木山安長寺は正安年間(1299-1301)、博多承天寺の住職蔵山順空和尚(諡号は円鑑禅師)が現在の禅宗に改宗したという。この時期に甘木山安長寺の住職を兼務。その後臨済宗の大本山東福寺の第6世となる。博多承天寺は寛元元年(1243年)、官寺となっている。 1530年頃に大内義隆は筑前甘木(福岡県朝倉市)に居館を構える。 しかし1587年(天正15年)、九州に攻め込んだ豊臣秀吉の軍勢の前に敗れ、秋月氏は日向国高鍋に移封された。 小早川隆景は天正14年(1586年)、九州征伐にも参加し、戦後に秀吉から筑前・筑後・肥前1郡の37万1,300石を与えられた。 その後、秀俊改め秀秋に家督を譲って隠居し、譜代の家臣団だけを率いて三原に移る。その際、秀吉は12月1日付をもって知行目録を隆景に授け、筑前秋月に5万150石という隠居領を与えた。 慶長5年(1600年)の関ヶ原の戦いの功により、黒田長政が筑前国の領主となる。秋月には叔父の黒田直之を配した。直之は秋月城や町割りを整備した。 その後1623年(元和9年)、福岡藩を統治していた黒田長政の遺言により、長政の三男黒田長興が秋月に分封され秋月藩が成立、以後は黒田氏による統治が明治時代の廃藩置県まで続くこととなる。 廃藩置県により秋月県の県庁所在地となったが、すぐに福岡県に統合され、県内の一都市となった。その後、明治政府の打ち出した政策に強い不満を抱いた士族により、1876年10月27日に秋月の乱が起こった。 近現代
行政歴代市長特記なき場合『日本の歴代市長 : 市制施行百年の歩み』などによる[1]。
産業甘木市に工場を置く主な企業地域教育高等学校中学校市立
小学校市立
交通空港は福岡空港が最寄り。 鉄道バス一般路線バス高速バス
道路高速道路一般国道主要地方道名所・旧跡・観光観光
百選甘木市出身の有名人脚注
参考文献
関連項目外部リンク |