田中 俊幸(たなか としゆき、1940年9月6日 - 2008年7月11日[1])は、山口県下関市出身[2]のプロ野球選手・プロ野球審判員。
来歴・人物
下関市立下関商業高等学校卒業後、1959年南海ホークスに投手として入団。一軍での出場はなかったが二軍で2勝1敗の成績。2年間の選手生活の後、1965年にセントラル・リーグの審判となる。1997年に審判部長に就任、2000年に通算3000試合出場を目前にして引退。その後審判部総務に所属して後進の指導に当たり2003年に退職した。
通算2936試合に出場し、オールスター6回(1980年、1985年、1989年、1993年、1997年、1998年。内1985年第1戦で球審。)、日本シリーズ5回(1985年〜1988年、1993年)出場。日本シリーズでは、1993年に第4戦、1986年・1988年に第5戦、1987年に第6戦の球審をそれぞれ担当している。
セ・リーグ審判袖番号は18(1988年初採用から1999年引退まで、現在は空番)。
1990年から4人制移行に伴いインサイドプロテクターを使用。退職後は少年野球教室の指導や2007年には俳優として舞台出演。2008年7月11日午前11時10分、外傷性クモ膜下出血のため死去。67歳没。
生涯で宣告した三度の退場
1973年9月11日、神宮球場でのヤクルト対大洋戦。大洋のジョン・シピンに対して見逃し三振をコールしたが、これに怒ったシピンがホームベースが隠れるほど砂を盛ったため審判への侮辱とみなし「退場!」「get out here!」と宣告。これを聞いたシピンがバットを振り上げて向かってきたため、体をかばうために両手を突き出したところシピンの喉に入った。翌日セ・リーグから戒告と職務停止3日の処分を受けたが、田中は故意ではなく正当防衛と主張している。
1987年5月2日、広島球場での広島対中日戦。中日が2対1でリードしていた場面で中日川又米利のヒットで走者中尾孝義が生還した際に広島の捕手達川光男のタッチを顔面に受け流血、中日の星野仙一監督が達川に抗議。再開後、二盗を試みた川又のミゾオチに広島の二塁手正田耕三のタッチが入ったことから川又が正田の胸を突き、両チーム入り乱れての乱闘となった。この際に暴力行為を働いたのは両チームで20人以上に及んだが、全て退場させると試合ができないと考えた田中は星野と広島の伊勢孝夫コーチに対して退場を宣告した。
1994年5月11日、神宮球場でのヤクルト対巨人戦の2回表。ヤクルト西村龍次の投球が巨人村田真一の頭部を直撃したため田中は危険球とみなして警告。3回裏、巨人木田優夫の投球が西村の腰に当たったが田中はすっぽ抜けと判断して続行。7回表、西村の投球が巨人ダン・グラッデンの顔の高さに来たためグラッデンが西村に詰め寄り、両チーム入り乱れての乱闘となった。田中は西村を危険球退場、グラッデンとヤクルトの捕手中西親志を退場とした。
不運だった晩年
1999年7月22日の東京ドームでの巨人対中日戦の8回裏、右翼手・井上一樹がドミンゴ・マルティネスの打球を直接捕球したが、一塁塁審を務めていた田中はこれをワンバウンドと判定。これに激怒した中日・星野仙一監督が猛抗議したが、結局判定は覆らなかった[3]。翌日、この判定が誤審であったことを認めた。この件以降田中は中日ファンから度重なる嫌がらせを受け、前述のミスジャッジをしたのをきっかけにやめろと半ば脅迫され、結果的にこの誤審の責任を取る形で辞任、審判引退となった。
自著によると星野監督が球界全体のために物申していたということが総務に転じてからわかり、和解した。
田中が立ち会った有名な試合
詳細情報
年度別投手成績
背番号
脚注
出典
参考文献
田中俊幸『プロ野球 審判だからわかること』草思社、2004年
関連項目
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1-6代 | |
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2010年よりセントラル・リーグ審判部とパシフィック・リーグ審判部を日本野球機構審判部に統合 |