碑文谷
碑文谷[5](ひもんや)は、東京都目黒区の地名。現行行政地名は碑文谷一丁目から碑文谷六丁目。郵便番号は152-0003[3]。 地理地区内には東京都道318号環状七号線(環七通り)および東京都道312号白金台町等々力線(目黒通り)の2つの重要幹線道路があり、両者が交差する柿の木坂陸橋は、重要な交通要所になっている。 公共交通の面では、目黒通りを中心とするバス路線網が充実しており、山手線目黒駅方面への便は非常に良い。最寄りの鉄道駅は東急東横線学芸大学駅・都立大学駅および東急目黒線西小山駅。他に徒歩で利用可能な駅として、東急大井町線・東急目黒線大岡山駅等がある。 地価住宅地の地価は、2021年(令和3年)1月1日の公示地価によれば、碑文谷4-12-14の地点で79.8万円/m2となっている[6]。 面積、世帯数と人口丁目ごとの面積[1]、および2021年(令和3年)4月1日現在の世帯数と人口[2]は以下の通りである。
歴史碑文谷は、かつては東京府荏原郡にあった村である[5]。1932年(昭和7年)に東京市目黒区に入りその町名となる[5]。かつてはタケノコの産地として有名であったが、次第に宅地化された。 地名の由来かつての荏原郡碑文谷郷、後の碑文谷村に由来する。応永32年(1425年)に記された『日運記』の中には既に「碑文谷」という地名が著されている。碑文谷の由来には碑文谷八幡宮内稲荷社に保存されている梵字を刻んだ「碑文石」のある谷(里)ないし秘文の谷(里)(「世田谷城名残常磐記」)が起源とするもの、鎌倉・室町期から檜の加工品「檜物(ひもの)」作りが盛んであったことに由来するなど、諸説ある[7]。 住居表示実施前後の町名の変遷
経済産業
『日本紳士録』や『人事興信録』によると、碑文谷では安藤、菅田、角田、富岡、宮野姓の人物が農業を営んでいた[8][9][10][11][12][13]。
『日本紳士録』によると、碑文谷の商工業者は保険代理業の安藤[8]、白米商の角田[10]、貸地業の角田[14]、荒物商・貸金業の角田[10][14]、荒物商の富岡[12]などがいた。
地主『日本紳士録』や『人事興信録』によると、碑文谷の地主は、角田倉[11]、角田長雄[15][16]、角田元亮[15][17]、角田光五郎、富岡金蔵[9]、富岡佐七[12]、宮野菊蔵[8]などがいた。 地域
小・中学校の学区区立小・中学校に通う場合、学区は以下の通りとなる[20]。
交通目黒駅や都立大学駅を起点とした東急バスの路線網が発達している。特に、碑文谷線(黒01系統)は東急バス全体の中で一番本数が多い。東98系統は東京駅丸の内南口から等々力操車場にいたるバス路線であり、東急バスと都営バスが共同運行する最後の路線であったが、2013年4月1日より東急バスの単独運行となった。詳しくは以下を参照のこと。 出身・ゆかりのある人物
脚注
参考文献
関連項目外部リンク |